2012年04月28日

◆木津川だより 中津道の散策E−2

白井 繁夫


前回訪ねた「奈良豆比古神社(ならずひこじんじゃ)」(地図Z:2番)から3〜400m位南へ行くと、コスモスの花で有名な「般若寺」に着きます。(地図Z:3番)
地図Z:http://chizuz.com/map/map127235.html

「般若寺」の草創期は、飛鳥・白鳳・奈良・平安時代と諸説あり、それ故、開基者も慧灌(えかん),蘇我日向臣(そがのひむかいのおみ)、聖武天皇、行基、観賢(かんげん)等々によるのかどうか、未だ分かっていません。

それは、この寺院が古代より兵火等による焼失、再興、破壊が繰り返されたため、重要な資料や文化財の多くが焼失し、残されていないことが大きな原因です。

しかし、嘗て3万6千坪(約12万m2)も有した境内が、明治初期の廃仏毀釈に因り2千坪(18分の1)に減じ、昔日の大寺院としての面影はないかも知れませんが、「般若寺」を訪ねた時、我々を魅了する本堂の仏像や、国宝、重文等の建造物などが暖かく出迎えてくれることです。

創建時の「般若寺」の位置を平城京から見ると、東七坊大路(平城京の東端を南北に通る大路)の北への延長線奈良街道(京街道)に面し、古来より栄えた街道の国境に建立されています。

当寺院の創建は寺伝によると、『舒明天皇元年(629年)高句麗の僧慧灌法師が開いた一精舎「般若台」から始まる』とあります。しかし、他の文献ではまだ確認されていません。

一般的に云われている説は、『奈良時代天平七年(735)、平城京の鬼門鎮護の為、聖武天皇が「大般若経」を納め、勅願寺として伽藍を整え、『般若寺』と命名し、住持第一世に行基を迎えた。』という説です。(住持:寺の主長である僧、住職)

当寺院の本尊: ◆(重文)木造文殊菩薩騎獅像は、後醍醐天皇の御願成就のため慶派仏師康俊が1324年に製作した仏像です。
最初の丈六文殊菩薩像は平重衡の南都焼き討ち(1180年)の兵火で焼失、その後再興され叡尊が造立した文殊菩薩も(1490年)焼失したので、経蔵に安置されていた(現)文殊菩薩をお祀りしています。


◆(国宝)楼門: 鎌倉時代(13世紀後半)に建立された入母屋造り.本瓦葺きの回廊門です。和様を基調としながら上層の組物など細部に大仏様(よう)の意匠を多くとりいれています。
P1000998般若寺楼門.jpgP1010002十三重石塔.jpg
写真左:国宝の楼門           写真右:重文の十三重石塔

◆(重文)十三重石塔: 高さ約14m 重量約80トン
建長五年(1253)に宋の石工:伊行末(いぎょうまつ)が、東大寺再建のため来日した際に、この石塔も彼らによって建立されました。石塔は四方仏(東)薬師、(西)阿弥陀、(南)釈迦、(北)弥勒の顕教四仏です。
(顕ヘ:けんぎょう:密教との対比語で釈迦如来が姿を示現して明らかに説き顕した教え)

ところが、治承4年(1180)以来、伽藍は灰燼となり、廃墟化してきた寺院を鎌倉時代に僧良慧(りょうえ)が石塔建立の供養をし、その後西大寺の協力で叡尊が七堂伽藍を再興して、丈六の弥勒菩薩を祀り、貧者、病人の救済などに力を注ぎました。

◆北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと):国の史跡
叡尊の弟子:僧忍性(にんしょう)は、更に弱者の救済のため、特に当時は不治の病と云われたハンセン病の患者を収容するための施設を「般若寺」の北側に建立しましたが、焼失してしまい、江戸時代に現在地に再建されました。

ところで、本尊の文殊菩薩像の造立は建長七年(1255)から文永四年(1267)の開眼供養まで12年間を要して獅子の上に乗った巨像がやっと完成しましたが、永徳2年火災にあい、永禄十年(1567)松永久秀の兵火で、またもや七堂伽藍も焼失しました。

般若寺は度重なる戦火の被害に遭いながらその都度再興されて来ましたが、とりわけ明治の廃仏毀釈の時は興福寺と同様、荒廃は特に酷く、そのうえ僧侶は還俗し、石塔は引き倒され、無住の寺と化しました。

しかし、民衆の厚い信仰心と西大寺の応援を得て徐々に敷地も買い戻され、(現在2500坪)境内に徐々に整ってきたのです。

それから僧良光師のもと、昭和39年(1964)の十三重石塔の修復が行われた時に、特筆すべきことが起こりました。それは塔内より、何と白鳳時代の銅造阿弥陀如来立像、仏舎利、宋版法華経、小型五輪塔、小型仏像などが出現したのです。これは驚きでした。

その後は境内の整備も更に進み、花の寺の別名の如く、『春(山吹)、夏(紫陽花)、秋(コスモス)、冬(水仙)』と四季折々の花が咲きました。

重文の本堂には文殊菩薩騎獅像を中心に不動明王、四天王などの各仏像が安置されておりまして、境内の三十三観音石仏、重文の経蔵、重文の笠塔婆など、このお寺は皆が注目する国宝の楼門、十三重石宝塔以外にも古代から綿々と受け継がれてきたいろいろな文物などが深い歴史と感動を与えてくれる寺院となって来ました。
  参考文献: 古寺巡礼奈良 5  般若寺   淡交社 1979年

次回の木津川(泉津)からの中津道の散策も、大和の佐保路に面する東大寺転害門(てがいもん)となると古代の藤原京と平城京の「中ツ道」の領域?と思いつつ訪れる予定です。
                               (郷土愛好家)
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