2012年05月15日

◆5・15も2・26も知らない

渡部 亮次郎


5・15事件(ご-いち-ご じけん)は、1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺した。

筆者の生まれる4年前の出来事だから、知らないのは当然か。

5・15といい2・26事件といい、いわば日本軍部が軍事強国を目指し、政党政治を否定し手起こした事件といわざるを得ない。首相の殺害には失敗した2・26事件では首謀者や指導者は銃殺されたが、先立つ5・15事件では精々禁固刑でしかならなかった。

このため2・26の青年将校たちは甘く見て事件を起こした。政界が無力だったという論もあるかもしれないが、武器を持った軍に空手の政治家が立ち向かえるわけが無い。

いずれにしろ、軍部の独走を許した為に日本は滅亡状態となった。経済は復興し、日本再建がなったように評価する向きがあるが、それは勘違い。私の判定は「精神的に絶滅」である。

当時は1929(昭和4年)年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。「大学は出たけれど」という映画が作られたほどの不況・就職難の時代だった。

1931(昭和6)年には関東軍の一部が満洲事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満洲事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930(昭和5)年ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。

これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。

この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、死亡した藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和維新の第2弾として決行された。

古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出した。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の西田税予備役少尉を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。計画は二転三転した後、5月13日、土浦の山水閣で最終の計画が決定した。

具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、

第一段として、海軍青年将校率いる第一組は首相官邸を、第二組は内大臣官邸を、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。

つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行に爆弾を投げる。

第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。

これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。

加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、この機会に暗殺する。

とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。

5月15日は日曜日で、犬養は終日官邸にいた。

第一組9人は、三上卓海軍中尉以下5人を表門組、山岸宏海軍中尉以下4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(1名が5月26日に死亡する)。

三上は食堂で犬養を発見すると、ただちに拳銃を犬養に向け引き金を引いたが、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養に制止された。

犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

ところが、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養の腹部を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養に重傷を負わせた。襲撃者らはすぐに去った。

それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。

6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。7月24日、橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎が検挙され、11月5日には頭山秀三が検挙された。

この事件によりこの後斎藤實、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

尤も実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。

また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養と面会する予定であった。チャップリンが思いつきで相撲観戦に出掛けた為難を逃れたが、「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

裁判の結果。

実行者

首相官邸襲撃隊 三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮15年)。昭和13年に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与

山岸宏 - 海軍中尉。禁固10年

村山格之 - 海軍少尉。禁固10年

黒岩勇 - 予備役海軍少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)

野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

八木春男 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

内大臣官邸襲撃隊

古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)

杉田善一郎 - 海軍少尉。禁固10年

坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁固4年

立憲政友会本部襲撃隊

中村義雄 - 海軍中尉。禁固10年

中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁固4年

民間人

橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反,殺人及殺人未遂)で有罪(無期懲役)。昭和15年に出所

大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)

本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁固4年

頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男.禁固3年。戦後、事故死。

反乱予備罪

伊東亀城 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁固2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁固2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。 禁固1年、執行猶予2年

(「ウィキペディア」)

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