2012年05月18日

◆芭蕉随行の「曾良」は忍者?

毛馬 一三


〜拙稿「芭蕉終焉(しゅうえん)の地って?」の第2弾〜

もともとの拙稿とは、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを筆者は不覚にも知らなかった。が、偶然にも知る機会を得たことから、以下思い立って綴った。

芭蕉自身、大阪で死ぬなどとは夢想だにしていない。早く床払いをして長崎に向けて旅を続けたいとの気持であったと、諸文献に記されている。

だが、思いもよらず病(食中毒らしい)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟り、幸せな生涯だったと瞑目しつつ、逍遥と死の旅に着いたようだ。

この芭蕉に関して、全国版メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から、添文を頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この添文を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな「示唆」が脳裏を駆け巡った。

それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、「曾良」を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破というが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロも歩いたことになる。だが、当時の道筋はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしかなかった。

余談だが、筆者も数年前江戸時代初期からある福井の「鯖街道」を歩いたことがある。山道の勾配は、天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、息が途切れる程の険しい街道だった記憶が蘇る。江戸時代当時の道には、橋はほとんどなかったらしい。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

そう思うと、「奥の細道」の道すがらも、大変だったことは間違いない。

この芭蕉に関する拙稿に対して、日本一メルマガ「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏から玉稿を頂いた。

<深川・芭蕉記念館 は拙宅の近くです。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。

江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。

芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。

「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 先日来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。

この玉稿を読ませて貰った直後、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。

それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。

江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算すると1日16キロ歩いたことになるが。だが当時の旅はそんな生易しいものではない。

江戸時代の元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えるしか方法はなかった。

筆者も数年前奈良時代からの福井の「鯖街道」を歩いたことがある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を幾度となく繰り返して上り下りし、僻々とした記憶がある。昔は山道もない場所は絶壁に張り付くようにして横切るしかなく、ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。

さて「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。

つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきている。それはまた別の機会に譲るとして、ここで書きたいのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強く、「忍者説」はあまり共合わない。

ところが調べてみると、そうではない。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたという説もあり、納得できる>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚や吟行などは一切行わず、すぐに幕府巡見使九州班員の役職に正式に収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿はそこにいなかった。公務を理由に恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのではないか。               (了)                     参考・ウィキべディア  (再掲)
           

によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考える方が無理な話だ。

だからここから「第2弾」を書きたくなった。つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。

「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。

ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、一部専門家の間で語られている。

その曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたらしく、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡がある。

その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なりことから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの支度金が潤沢だったため、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の興行収入だけでは食えなかった芭蕉の懐具合に、この「曾良」の任務による稼ぎが手助けをしたものという説は、納得できる。>。

こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、巧に芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説は真実味を帯びてくる。果たして芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚も行わず、すぐに幕府巡見使九州班員に直ぐに収まっている。

芭蕉の終焉の時、曾良の姿は芭蕉の枕元にはいなかった。公務を理由に師匠の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなく、芭蕉を利用して全国を探索して回る「隠密」とみるのが、どうも本当のようだ。  (了)               参考・ウィキべディア  (再掲)
           

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