2012年05月31日

◆王座譲らぬ台湾バナ

渡部 亮次郎


熱帯植物であるバナナの商業生産地としては台湾は北限に位置する。フィリピンバナナに押されているが、品質、味の点で依然「王座」にある。

]台湾はバナナ生育の条件である気候的には寒く、フィリピンでは8か月で収穫できるのに台湾では収穫まで12か月から13か月かかるものもあり、促成栽培でなくじっくり成長するため味、香りが濃くなる。

台湾は小さい島だが、富士山より高い山があったり、熱帯地域があったり、北と南では気温も違い、均一な気候風土ではない。また台風銀座とも呼ばれ、毎年多くの台風が通過し、バナナ畑にも被害をおよぼす。

台湾が日本の統治下にあった時代に、日本人が現地の農民に日本の果物の端境期である春先から初夏の時期にあわせて出荷できるように、バナナ栽培を指導していた。

同じ台湾バナナでも、時期によって色、形態が微妙に変化する。

1月中旬から3月中旬は「冬蕉」(冬バナナ)と呼び、3月中旬から4月中旬は「花竜仔蕉」、4月中旬から5月中旬は「黒皮春蕉」等々。

名前のように緑が濃く「黒い皮」のようなバナナや、「白い皮」のバナナ、頭が丸く大きいバナナ、さきが尖ったバナナといった違いがある。

明治36年、都島金次郎によって日本に初めて台湾バナナが輸入された。当時の日本は冬季のミカンから夏季のスイカまでの間の果物需要を満たす果実が少なく、台湾バナナは日本人好みに品種改良が行われ、次第に日本の食卓へと浸透していった。

台湾総督府もこの新たな特産物を奨励し、大正13年には半官半民の「台湾青果株式会社」を設立。流通を担い、昭和12年に台湾バナナの出荷がピークを迎えたが、第2次世界大戦の勃発により、戦時中、台湾バナナの出荷量は激減した。

戦後、まずはGHQ向けに出荷が再開され、その後は民間向けにも再び日本への出荷が始まったが、当時の日本政府は外貨不足から輸入割当制度を行っており、その総量はなかなか回復しなかった。

一方では、依然として高い消費需要があったため台湾バナナは値上がりし、特に上質の台湾バナナは料亭やホテルに買い占められていたため、昭和30年頃まで台湾バナナは「高級品」の位置づけにあり、庶民が上質の台湾バナナを購入できるのは病気見舞いなどの際にほぼ限られていた。

台湾バナナは度々台風の直撃を受けたことと、昭和37年にコレラが流行ったことにより出荷量がさらに減少するが、同時期にエクアドルが日本市場に売り込みを開始し、一時は市場の8割を占めるまでにエクアドル産バナナが台湾バナナのシェアを奪った。

だが、エクアドル産バナナは長距離輸送と管理において台湾バナナに品質の面で大きく水をあけられており、台湾バナナは昭和42年頃に再びシェア8割を確保するようになった。

一方、昭和49年になるとフィリピン産バナナが台湾バナナの前に立ちはだかった。昭和42年頃のフィリピン産のシェアは2%代だったが、日本の商社が大規模生産を開始し、昭和48年には約5割、昭和49年以降には7割のシェアを奪うまでになる。

品質は台湾バナナに及ばないものの、輸送距離の短さによる品質劣化が少なかったことが、フィリピン産バナナの躍進に繋がった。

しかし、バナナの消費大国だった日本ではこの時期、急激にバナナの消費自体が減少していく。これには経済成長と輸送技術の進歩、収穫期をずらして果実を収穫できるハウス栽培の一般化によって、バナナ以外にも果実の選択肢が広がったことが原因としてあげられている。

平成19年の市場シェアは約2%となっているが、バナナは再び健康食品として注目を集めており、バナナの消費は増加傾向にある。特に高品質の台湾バナナは健康やダイエットを求める消費者の嗜好に合致するものとして近年売り込みを行っており、大規模ショッピングセンターなどでは台湾バナナはラインナップの一つとして定着しつつある。(「ウィキペ
ディア」)

台湾バナナの到来

台湾バナナが日本に到来したのは、明治36年頃、当時台湾は日本領で基陸(キールン/台湾北端)の商人(都島金次郎氏)が神戸に持ち込んだのが始まりとされています。その後、台湾に地理的にも近い北九州市の門司港に大量の台湾バナナが荷揚げされ、市場が設けられました。

バナナの商品化に問題発生

バナナは硬くて青い状態で台湾から輸入され、問屋の地下の加工室(むろ)で追加熟成され、甘く黄色く色付けされた後、市場に出て売られます。ところが、台湾から輸送中に蒸れた物とか、加工中に生じた一部の不良バナナは、二級品として商品化出来ない物が出ていました。

現在では、菓子やジュースといった加工を施して、別の商品として生まれ変われますが、明治、大正期は、その技術はなく、捨てるしかなかった。

●「バナナのたたき売り」この二級品バナナをどうするか、早く換金する手段はないかと考え、明治41年頃から北九州市の門司港の桟橋通りで、口上宜しく、客を集めて売りさばかれたのが「バナナのたたき売り」の始まりとなりました。

当時、門司は、九州の大都市でJR門司港駅前(西海岸地区)から桟橋通り付近までの街道には露天商や夜店が並び、その中でひときわ目立ったのが「バナナのたたき売り」だったそうです。


●危機と復活

第2次世界大戦(1941年〜)の激化につれて、昭和19(1944)年初め戦況悪化によりバナナの姿 も次第に消え、やがて終戦後、門司校区自治協会長だった井川忠義さんが、たまたま中学校時代に見聞した、「バナナのたたき売り」の口上を作詞・作曲し、持ち前の美声で当時流行した覗き調で披露したことで復活しました。 

昭和33年・・・門司港地区活性化に向け、「門司港発展期成会」を発足、平成11年・・・「門司港バナナのたた売り保存会」に改名現在は、門司区役所の委託を受けて「バナちゃん道場」と称し、芸能の継承者育成活動もある。

<口上> ♪春よ三月春雨に 弥生のお空に桜散る
バナちゃんの因縁聞かそうか

生まれは台湾台中の アリサンふもとのかた田舎

台湾娘に見初められ ポッと色気のさすうちに

国定忠治じゃないけれど 一房二房もぎ取られ

唐丸籠に詰められて アリサンふもとを後にして

ガタゴトお汽車に揺すられて 着いた所がキールン港
キールン港を船出して 金波銀波の波を越え
海原遠き船の旅 艱難辛苦の暁に
ようやく着いたが門司港(みなと)・・・

この項 「知って得するまめ知識」より
http://www.geocities.jp/mikkey_hp/tisiki/menu.html

                        2012・5・25
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック