2012年06月07日

◆「痰の話」で思い出す支那

石岡 荘十


‘35京都で生まれ、そのすぐ後から敗戦2年後まで中国(当時は支那)に留め置かれた。幼い頃の記憶はもちろんないが、物心ついて以降、見聞きしたかの国の“文化”といまの日本のギャップを、本メルマガの反響欄が思い起こさせた。 

幼い頃の記憶はこうだ。

その1。

夏の日、父の仕事が休みのある日、「支那人と犬入るべからず」という立て札が入り口にある公園に家族そろって出かけ、公園の中の、支那人以外のためのプールで家族で泳ぐ。ある日、帰りに天津市内でも最高級の中華料理店でそろって子豚の丸焼きを食った。

糞をしたくなって、用を足そうと便所へ行くと便器のはるか暗い、深い底にうごめく動物がいて、驚いて下を見ると、数匹の豚が新鮮な私の排泄物をむさぼっていた。今思えばここでは完璧な“食の循環”が実現している。

だが、これで私は完全に食欲を失った。これがトラウマになって、決して宗教上の理由ではなく、長い間、私はブタが食えなかった。

その2。

小学校の同級生に、当時の天津領事の息子(小山田あきら?)がいて、放課後、いつも領事館へ遊びにいっていた。ほとんどは広大な領事公邸の中で遊んでいたが、ある日、門の外に来る物売りの声に誘われて外に出た。

天秤にかけた台に切り分けた瓜が載っていた。それが喰いたくて「どれがうまい?」と私たちに付き添ってきた領事館の守衛に聞いた。守衛は「ツエーガ(これだよ)」と指差したのは、ハエが一番多く群がっている瓜だった。

“動物学的”に言ってそれはそうだろうと納得したのはずっと後のことだが、ハエがたかっているのは汚いという考え方は彼らにはないらしい。

いつだったか大分昔、多分、日中国交回復の頃、「中国にいまや1匹のハエもいなくなった」という提灯記事をどこかの新聞で読んだ記憶があるが、決して信じなかった。私の幼い頃の確かな記憶が記事のウソを見破った。

その3。

父が勤めていた会社の管理職住宅は鉄筋コンクリートの一戸建ての“豪邸”で、玄関を入ったところに、日本流で言うと、女中部屋があった。女は阿媽(アマ)と私たちが呼んでいた纏足の小柄な女だったが、時々、旦那が小さな女の子を連れて泊まりに来ていた。

女中部屋は6畳ほどの小さな部屋だったが、遊びに行くと、部屋の隅に花瓶のような形の壷が置いてあって、そこに時々、「ペッ」と痰を吐く、というか飛ばす。

それがまた結構遠くから正確に痰壷のど真ん中に命中するのを、何の不思議もなく見ていたのを思い出した。ホールインワンどころではない。アルバトロス級である。北京オリンピックで「痰飛投」などという種目が出来たら間違いなく金だろう。

人前での屁は慎むが、食事中、げっぷは割と平気でやる。屁は平気だけど、げっぷは禁忌という国もあると聞く。生活習慣がそんなに違う民が十数億人もすぐそこにいる。

痰。さてどうするか。

話題はそれますが、昭和18・9年当時、幼馴染の父、小山田天津領事とその家族の消息を知りたいと思っています。その頃、いつもアイスキャンディーを作ってくれた、髪の長い、美しいお姉さまがいました。確か、「たえ」さんでした。
                                (ジャーナリスト)

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