2006年11月03日

◆岸の安倍狂い

渡部亮次郎

国家の進路には命を張った岸信介だったが、娘婿安倍晋太郎の出世のことになると、なりふり構わなかった。

それを評して世間は「岸の安倍狂い、福田の自分狂い」と言った。総理大臣を辞任した時の岸はまだ63歳。当初は復活の野心がなかったわけじゃないが、実弟の佐藤栄作が総理になったあたりから女婿の安倍晋太郎を「総理にする」ことばかりに奔走した。

引き換えて子分の福田赳夫氏は自分の出世しか考えなかったので「福田に自分狂い」と言う不名誉な評が残った。

古手の政治記者なら知っていることだそうだが、福田の周りにいた私には却って聞こえて来なかった。同僚だった前田一郎さん(元NHK解説委員)に最近、教わった。

なるほど、例のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にも出ている。

<(岸は)晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。>

私が外相時代に秘書官を勤めた園田直について岸は自民党にいる2人の秘密共産党員の1人と決めつけ、国対委員長、官房長官、外務大臣と進む都度、追放を仕掛け、その後を安倍晋太郎に襲わせることに成功した。

実は知り合いのノンフィクション作家塩田潮の取材にに協力をした故を以て、ご労作『昭和の怪物 岸信介の真実』ワック滑ァを送っていただいた。

岸については、その晩年の何年か、東京・内幸町の日石本社(現新日本石油)の3階にあった岸事務所を定期的に訪ねて、時々の政局に対する「見識」を拝聴したものだが、詳しくは「研究」しないまま今日に至った。

だから、この本によって初めて知る事は多かった。以下、ウィキペディアも参照。
 
1)元士族(武士)の家柄。信介は山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第5児(次男)として生まれる(本籍地は田布施町)。3歳のころ一家は田布施に帰郷し造り酒屋を営む。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。

実家の佐藤家について、自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、特に曽祖父・信寛の威光がまだ輝いておったのである。

また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった」と述べている。

長兄市郎は海軍中将。岸より6歳年下の栄作は親戚佐藤寛子(ひろこ)家に入り婿。佐藤家から佐藤家に行ったので実家を継いだものと誤解されるが、岸も佐藤も養子だ。

 2)旧制岡山中学、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)、
第一高等学校 (旧制)を経て、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。
 
3)高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。帝国大学では彼らの在学中に銀時計下賜を廃止しているため、正確な席次は不明。

岸は憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧める一方で、周囲は大蔵省や内務省に入ることを期待。岸は官界へ進み、敢えて農商務省を選択した。

 4)多くの異名を持った事でも知られる。旧満州国での官僚時代、軍部・財界の実力者であった東條英機、星野直樹、鮎川義介、松岡洋右らと共に、満州の「2キ3スケ」と綽名され、総理辞任後の晩年は、なお政財界に隠然たる影響力を有した事から、「昭和の妖怪」(元々は西園寺公望の綽名)などと称された。

 5)1944年7月13日には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東條に対して、既に岡田啓介元総理らと気脈を通じていた現職閣僚(国務大臣。代議士は辞任)の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職に追い込んだ。

東條の側近である四方諒二(しかた・りょうじ)東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、「叩き斬ってやる!!」と恫喝するも岸は折れなかった。やむなく東條は、7月18日内閣総辞職を決意した。

 6)戦争犯罪容疑で逮捕拘留されたが、岸は戦犯不起訴となり、東條ら7名の処刑の翌日(1948年12月24日)に釈放された。東條への抵抗を評価されたとの説、アメリカ自身の占領政策の変更説あり、確定的な説はない。
 
7)1953年(昭和28年)に自由党公認候補として衆議院選挙に当選。1954年(昭和29年)吉田茂により自由党を除名されると、新たに日本民主党を結成し幹事長に就任。

かねて2大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年(昭和30年)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。

 8)1956年(昭和31年)12月、外務大臣として石橋湛山内閣に入閣するが、2ヶ月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務める。石橋により後継首班に指名され、石橋内閣が総辞職すると、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。

頭脳の良さは記憶力、判断力の良さに止まらず、事務的処理能力においても飛びぬけていた。加えて度胸の据わったところ。派閥が自然に常に出来た。

娘洋子の婿には官僚ではなく新聞記者を希望。友人の紹介で毎日新聞記者の安倍晋太郎を知ったが、安倍は旧友の息子でもあったので話は急展開した。この夫婦に出来た3人の男の子のうちの次男が安倍総理である。三男信夫が岸家の養嗣子となった。岸の長男信和に子がないため。

 9)1960年(昭和35年)6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診されていた防衛庁長官・赤城宗徳がこれを拒否した。一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と自殺を考える所まで追いつめられたが、条約の自動承認と、アイゼンハワー米大統領の訪日延期が決定。

「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の1960年6月23日、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。

 10)「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」と言うのが岸の口癖、何度か聞かされた」。(元共同通信社常務理事古澤襄)

岸は妖怪なんかではないが、怪物ではあった。以後、これほどの政治家を大和民族は持てなかった。安保騒動で総辞職を余儀なくされたのは返す返すも残念であった。河野一郎とは初めは良かったが政権の途中から不倶戴天(ともに天を戴かず)の敵となった。

岸は安倍に夢を託したまま1987年8月7日に逝去。しかし安倍晋太郎も4年後には無冠のまま逝去。2006年になって孫が政権の座に着いた。岸も新太郎も予想していただろうか。

(文中敬称略)2006・11・03
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