2012年07月18日

◆「の」で初入閣した園田直

渡部 亮次郎


建国記念「の」日を迎えるたびに園田衆院副議長時代を思い出す。

佐藤栄作内閣は発足間もない1995(昭和40)年12月12日未明、日韓条約案件を衆議院本会議で強行採決で批准した。当時私はNHK政治部の一員で衆院本会議番の記者だった。

時の自民党幹事長は田中角栄で、記者たちから採決をいつ断行するのか連日責められ、その都度「きょう」といい続けた。NHKとしては歴史的な事件として残るであろう採決の瞬間をTVで実況中継する計画。

そのためにはTVの中継スタッフを何十人も国会に待機させ3食を補給しなければならない。担当は報道局庶務部。担当者は食事の手配のうえからも「何時」への関心が高い。

だが幹事長は毎日「きょう」と言いながら採決を引き延ばすものだから、庶務に突き上げられたNHKの幹事長番はとうとうノイローゼになる始末。

採決の瞬間は突然やってきた。船田中議長が暮も近い12日、未明、「この際あらゆる手続きを省略し、案件を採決いたします。賛成の諸君の起立を求めます」とやったから議場は総立ち。「起立多数。よって本案は可決されました」となった。

与党、野党の若い議員が議長席に詰め寄った。楢橋代議士の上着がセンターベンツのところで真っ二つにさかれていたのをおもいだす。しかし船田議長はさっさと議長席を下り、後ろのドアから退出、そのまま青山の産科病院(親戚)に入院してしまった。

日韓条約は12月11日、参院本会議でも強行採決で可決、成立した。衆議院の船田、田中伊三次の正副議長は混乱の責任を取るとして辞任。

後任に議長は山口喜久一郎、副議長園田直がさ党総裁の推薦により
本会議で選出された。奇妙なことに、二人とも佐藤のライバル河野一郎派閥所属だった。私は河野はを担当しながら、正副議長を引き続き担当することになった。

園田氏は当選9回ながら未入閣の代議士だった。50を過ぎていた。
このポストでなにか功績を上げ、入閣を狙うのじゃないか。試みに毎日のように副議長室へ通った。他の記者は議長室で山口議長若い頃の自慢話を聞いているようだった。

毎日通っているうちに、奇妙なことに気づいた。副議長室の本棚がどけられ、直接、議長応接室へ出入りできるようになっている。
「これは何かある。園田は何かをやらかそうとしている」。私は気づかぬふりをして去った。

遠くから見張っていると議長室に入った社会党の石橋政嗣国対委員長が、暫くして副議長室からでてきたではないか。つまり議長室と副議長室を結ぶ議長応接室で何か密議がおこなわれているのじゃないか。

佐藤内閣が解決すべき日韓条約の次の案件は何か。そうだ、紀元節復活法案の成立だ。園田はこれを解決して初入閣を果たそうとしているのだ。

ある日、園田さんに正直にこれをぶつけてみた。園田氏は驚く様子も見せず「あゝたはワシの腹の中をいつみたとですか」と肯定した。しめた。正月に伊勢神宮参拝に同行したとき「菅原通済に勲1等をやれる方法は無いものか」と呟いたでしょう。あれがヒントです」といった。

つまり社会党と自民党の間で妥協点を見出す。その過程で菅原氏を使う、と言う方法。自民党からは田中幹事長の一任を取り付け、社会党へは国対族として通じ合う石橋国対委員長と渡り合って妥協点を見出す、と言う案では無いですか、と追い討ちをかけた。

これで園田氏は「降参」し、以後すべてを教えてくれるようになった。しかし書かなかった。大きな特ダネにするためには、コトが仕上がるまで極秘にすべきだと考えた。キャップにもデスクにも報告しなかった。

やがて園田・石橋間で、法案の名称を建国記念「の」法案とする。
法案を「建国記念日法案」としたのでは社会党内で「紀元節復活法案」として反発が強いが建国記念「の」だとやわらぐというのだ。

日取りは「2月11日とせず審議会で決める、審議会の会長は菅原氏とする」の線でまとまった。昭和41年6月3日、話は「山口衆院議長の斡旋案」として公表された。特ダネは直前に放送された。

やがて建国記念「の」日は佐藤内閣の意図のとおり「2月11日」に決まり、園田氏は副議長として3代の議長に仕えた後、佐藤改造内閣の厚生大臣として初入閣した。「の」が決め手だった。
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