2012年07月25日

◆光秀の愛宕神社「祈願」の謎

河内 勝ニ


京都右京区の愛宕山の山頂にある愛宕神社は、大宝年間(701年〜704年)に創建されたもので、「火伏せ・防火」に霊験ある全国800神社の総本山。本殿で頂く「火廼要慎」の火伏札は、京都・大阪などの料理屋や家庭の厨房に貼られ、崇められている。

愛宕神社が有名なのは、標高924mの山頂にある「愛宕神社」までの参道が、急勾配の山道と石段が昔のまま今も残されていることだ。

それ以上に世の関心が集まっているのは、明智光秀がここで戦勝祈願したことである。

光秀は、天正10年(1582)5月、織田信長を討てるかどうか占うため、神社本殿で「籤」を引き、4回目にしてやっと「吉」を手にして本能寺攻めを決意したとされる。

だが、本能寺攻めの占いの「籤」を引いた明智光秀が、なぜ「火廼要慎」の神様へ祈願したのか。筆者にはそのことが予てから不可解な歴史の「謎」だった。

さて、話を冒頭に戻す。

今回の「愛宕神社」参詣は、この謎解きに迫れるのではないかと、筆者の気持ちは昂ぶった。

健脚を楽しむ「大阪城歩こう会」の13人の主たるメンバーが、大阪梅田を阪急電車で出発、京都愛宕山山頂を目指したのが、朝7時50分だった。

阪急「嵐山駅」で降りて渡月橋を渡り、京都バス経由で登山口となる「清滝」で下車したのが午前9時30分。そこから小さな朱色の鳥居を潜り、表参道に出る。山頂まで50丁、愛宕神社までの長い急坂の山道への挑戦がここから始まる。

脚力には自信のある仲間全員も、急勾配の長い山道を上るにつれ、異常な暑さに息切れが伴い、杖を頼りにただ黙々と上を目指す。

7合目に来ると杉に覆われた森林の隙間から展望が拓け、広沢池、桂川、京都市街が眼下に広がった。緩やかに呼吸を整えながらの歩行法で更に登ると、休憩所のある広場に着いた。そこでやっとメンバーから歓声が上がった。

少し登って黒色の総門を潜り、丁度正午に社務所に到着。そこから237段の石段を上がり、「愛宕神社」の本殿に並んだ。息を整え、雑念を払って一礼・二拍手、「家内安全」「火廼要慎」を祈願。再び一礼して参拝を終え、石段を降りて社務所の広場に戻った。

3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれているそうで、幼児を伴った参詣者らが大勢社務所に集まり、「火廼要慎」のお札と「御神籤」を求めている。

社務所を訪ね、白装束姿の男性職員に勇気を出して声をかけ、予てからの「疑問」を訊ねてみた。

返ってきた話に息を呑んだ。その職員の説明を書いてみる。

<戦国時代の頃のこの神社は、戦国武将にとって、今の「火廼要慎」祈願神社とは違っていた。

本殿に愛宕大権現の本地仏の「勝軍地蔵」が祀られ、各地割拠の武将からが「戦勝祈願の神社」の象徴として崇められていたという。

だから、近隣の亀山城主だった明智光秀は、ここ「愛宕神社」に駆けつけ、本能寺を攻められるかどうか占うため、この「勝軍地蔵」に祈願し、「籤」を引いたというのだ。「火伏せ防火の神」に祈願したわけではない。

その結果に勇躍した秀光は、その翌日ここ社務所の前身の「西坊威徳院」で連歌会を開いている。その時詠んだのが「ときは今 あめが下しる 五月かな」だった訳だ>。

これを聞いて、1300年前から火伏せ防火の霊場とされてきた当神社は、実は戦国武将にとっては、「勝軍地蔵」に捧げる「戦勝祈願の神社」というもう一つの顔を持っていたことが初めて分かった。腑に落ちなかった光秀のこの神社への祈願と「籤」引きの「歴史の謎」が、遂に解けたのだ。

更に同職員は付け加えた。
<この神社に関係があるのは光秀だけではない。記録によれば仙台の武将・独眼流伊達政宗も参拝しているおり、連続ドラマ「天地人」の主人公にもなった直江兼続の兜の「愛」も、本神社の名との関わりを持つという>。

長年のわだかまりを払拭してくれた社務所の職員に深々と頭を下げ、仲間の待つ広場に戻った。聳える「愛宕神社」に目を遣ると、歴史の時間と空間が蘇るような気がする。脚力の限界を超える初体験の山登りだったが、歴史の謎解きと直に向かい合えたことは無常の喜びだった。

これだから「歩こう会」の山登りは止められない。(再掲)

参考―フリー百科事典「ウィキペディア」、「関西周辺の山250(山と渓谷社刊)」
                             

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