2006年11月29日

◆小沢一郎の軌跡

                  渡部亮次郎

昭和60年(1985年) 12月18日 自治大臣兼国家公安委員長(第2次中曽根内閣第 2次改造内閣)就任(初入閣。しかし、以後入閣なし)。

田中角栄に反旗を翻した竹下登、金丸信らとともに派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立する。

昭和61年(1986年) 7月6日 第38回衆議院議員総選挙(旧岩手2区・自民党公認)7期目当選。

竹下内閣では内閣官房副長官に就任(非閣僚)。官房長官に指名されたのは小渕恵三だった。

平成元年(1989年)海部政権で自民党幹事長就任。自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、第39回衆院選に勝利するなどの実績から「豪腕」と称された。竹下、金丸が後ろに控えていたから出来たこと。

小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の1人に数えられルようになった。(皮肉なことだが一時的に担いだはずの竹下登はやがて闇の領袖となり田中支配が竹下支配に衣替えしただけのことになってしまう)。

湾岸戦争に関連し国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連が推す現職に代わりNHKキャスター磯村尚徳を擁立したが敗北したため責任をとり党幹事長を辞任。

しかし直後に経世会会長代行に就任。名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称される。

だが次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めていった。

平成2年(1990年) 1月24日 第39回衆議院議員総選挙(旧岩手2区・自民党公認)8期目当選。

海部内閣が政治改革を巡り総辞職を余儀なくされると、金丸から後継首相になるよう説得される。金丸の意を受けた渡部恒三なども必死に説得し、また渡辺美智雄や宮沢喜一などには俺たちは降りるからおまえがやれと言われたそうだが、当時49歳であり若すぎる事を理由に、これを固辞する。

また6月に心臓病(狭心症)で倒れ健康不安説が一時期出た。当時の自民党の力学から言って、小沢が受諾さえしていれば総理になれたといわれる。小沢の政治家人生でもっとも総理に近づいた時であった。

本人は数年後に「あの時はまだ若すぎたし、健康面での不安もあった」と回顧している。

平成3年(1991年)10月10日、自由民主党総裁選挙において派閥として支持する候補者を決定するために、出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した。

しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は年齢こそ小沢より上だが、当選回数は小沢よりも1少ない)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。

このことは後々まで「経世会支配」「豪腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(小沢は、「当日はホテルの会場が満室でどこも予約できなかった」と弁明し、宮沢は後に私の履歴書の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから出向くのが筋であった」と回顧している)。宮沢内閣成立。

平成4年(1992年)、東京佐川急便事件を巡り金丸が世論から激しい批判を受けて派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢は竹下派七奉行のうち金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らとともに羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。

当初中立であった参院竹下派に派閥オーナーである竹下自らが関与して小渕支持を決定、この結果として後継会長は小渕に内定した。政争に敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし、竹下派は分裂した。

野党から宮沢内閣不信任案が上程され、平成5年(1993年)6月18日、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した。


平成5年(1993年)6月21日には、武村正義、田中秀征らが自民党離党、新党さきがけを結成した。 この事は羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。

小沢は新生党の幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に不在であったため「党首に就任した羽田孜の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。

7月18日 第40回衆議院議員総選挙(旧岩手2区・新生党公認)9期目当選。142,451票。票はこれを最高に減って行く。

小沢は、総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜する。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。自民党が初めて野党に成り下がった瞬間だった。

細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立した。

平成6年(1994年)2月3日、細川は未明に突如、消費税を廃止して7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発に遭う。

これは小沢と大蔵省事務次官の斎藤次郎を中心に決定したことであったが、社会、さきがけ、民社各党の批判に遭い、翌日細川は国民福祉税構想を白紙撤回するに至った。特に官房長官の武村は公然「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言し、小沢との対立はますます先鋭化する。

そのため小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望するも、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。

細川の突然の辞意は、小沢にとっては寝耳に水のことであったが、直ちに後継首班に向けて始動する。小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫、連立与党は羽田の後継首班に合意する。

しかし、首班指名に先立ち平成6年(1994年)4月25日、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、4月26日、社会党は連立政権を離脱を発表する。

連立与党側は社会党の連立政権復帰に努力したが、時既に遅く4月28日、羽田内閣は少数与党内閣として成立した。

小沢と羽田の関係に微妙な影が差し始めたのはこの時期からである。羽田内閣は平成6年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。

小沢は羽田と相談した上で、解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。

小沢が羽田の後継として狙いを定めたのは、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹であった。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。

平成6年(1994年)6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となる。

しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生初の野党に転落する。爾来、12年の野党暮らしが続いているわけ。

新生党内では、愛野興一郎(元田中派の仲間)らを中心に、小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するためには、小沢の豪腕が必要とされた。

9月28日、日本共産党を除く野党各党187人が集まり、衆院会派「改革」の結成を見た。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。

小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。小沢は党首に海部を擁立し、自らは党幹事長に就任する。

平成6年(1994年) 12月9日 新生党解散。 新生党は1年半しか保たなかった。12月10日 新進党結成、幹事長就任。

平成7年(1995年)7月、第17回参院選では、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得し躍進した。平成7年(1995年)12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突する。

平成7年(1995年) 12月28日 党首就任。これはは羽田を破っての選出。しかし直後に投票者名簿が破棄されるなど選挙が不明瞭さを残した事から羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。

平成8年(1996年)10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党首選での主張を党公約「国民との5つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席を獲得、事実上敗北した。

平成8年(1996年) 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(岩手4区・新進党公認)10期目当選。125,619票。

総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、平成8年(1996年)12月26日、羽田、奥田敬和ら衆参議員13名は新進党を離党、太陽党を結成する。奥田はその後病死。

平成9年(1997年)、小沢は自民党(当時)の亀井静香らと提携する、いわゆる「保保連合」路線に大きく舵を切る。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して2大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成する。

12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速する。(鹿野は17年9月の郵政選挙で落選した)。

党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月25日には旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の解党と新党の結成を発表した。

新進党内は蜂の巣をつついたような混乱に陥り、解党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。

平成9年(1997年) 12月27日 新進党解散。

平成10年(1998年) 1月5日 自由党結成、党首就任。

平成10年(1998年)1月、自由党を結成、小沢は党首に就任する。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した

平成12年(2000年) 6月25日 第42回衆議院議員総選挙(岩手4区・自由党公認)11期目当選。119,099票。

平成10年(1998年)10月、小沢は内閣官房長官の野中広務と会談、連立交渉を開始する。その後、紆余曲折を経て平成10年(1998年)11月19日、小渕首相との間で自自連立政権について合意した。

平成11年(1999年)1月14日正式に自自連立政権が成立し、自由党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰する。議員定数50削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と国会改革がこの連立の主な成果として挙げられる。

平成11年(1999年)7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立する。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下していった。

自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は小渕に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は平成12年(2000年)4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消することになる。この直後、小渕は脳梗塞に倒れた。

自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅、二階俊博らの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成する。

小沢と袂を分かった保守党側は、半分に分裂するのだから政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。

保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることになる。分裂の結果、自由党の勢力は、衆議院議員18名、参議院議員4名、計22名に半減した。

しかし分裂直後に行われた平成12年(2000年)6月25日の第42回衆院選では苦戦が予想されたが小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦する。

このとき約20億円投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる。

平成13年(2001年)1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。小沢塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営されている。

平成13年(2001年)7月29日の第19回参院選では小泉ブームで自民に追い風が吹き、小沢王国である参院岩手選挙区も大苦戦を強いられたが、なんとか僅差で勝利し面目を保った。しかし、議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票にとどまった。

平成14年(2002年)、民主党代表の鳩山由紀夫は、党内の求心力を強化するため野党結集の必要性を感じ、小沢に接近した。小沢も自由党で選挙を戦うには限界を感じていたため、2人の思惑が一致した。

鳩山は民主党と自由党の合併に向けた協議を行うことを発表するが、党内調整が不十分であったため、求心力を強化するつもりが皮肉にも求心力を失い代表辞任を余儀なくされる。

党代表に再び選出された菅直人は鳩山路線を引き継いで民由合併を促進、菅と小沢の間で合併は党名・綱領・役員は民主党の現体制の維持と言うことで合意が成立する。また選挙が近いという議員心理が合併を後押ししたと思われる。

平成15年(2003年) 9月26日 自由党解党、民主党合流。

平成15年(2003年)9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は党代表代行に就任した。平成15年(2003年)11月9日の第43回衆院選で民主党は政権交代への期待もあり公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得した。

民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策が完全に一致し、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を近くすることになる。

また小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが、これは失敗した。民主党に移った小沢はそれまでの新自由主義一辺倒から「地方経済」と「雇用」の重視の方針を打ち出した。

11月9日 第43回衆議院議員総選挙(岩手4区・民主党公認)12期目当選。128,458票。

平成17年(2005年) 9月11日 第44回衆議院議員総選挙(岩手4区・民主党公認)13期目当選。124,578票。

2005年の郵政解散直後は社民党が民主党に対する批判を控えて民主との合併を匂わせる態度を見せるも対中強硬派の前原が代表に就任したためか一旦流れている。

平成18年(2006年) 4月7日 党代表就任。(以上出典「ウィキペディア」)

党幹部が起こした偽メイル事件の結果、民社党には小沢以外に担ぐ人物はいなかった。小沢に嘗て自民党脱党時の仲間は全く周辺にいない。喧嘩別れ、見捨てた者数知れず。これで政権が獲得できるというのは夢か幻である。

平成5年6月自民党脱党から13年。小沢は64歳を過ぎた。さりとていまさら自民党に戻ることもなるまい。戻っていっても産卵のため遡上してきた鮭がそこで果てるようなものだろう。(文中敬称略)2006.11.26
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