2006年12月18日

◆東京で食べられない物



          渡部亮次郎

東京では全国至る所の食べ物や食材が入ってくる。最近も秋田沖の荒波で育った真鱈を宅配便で取り寄せて鍋にして食べた。秋田では「ざっぱ汁」とか「じゃっぱ汁」とか言う臓物の鍋である。脂が乗っていて格別に美味である。

これは国鉄がなくなったお陰である。トラックによる民間の宅配便なる手段が普及して、秋田市の市場から午後3時までに送り出してもらえば、翌朝9時には東京に到着する。国鉄は役人だったから、こうしたサービスを考えることすら出来なかった。

かくて「じゃっぱ汁」会は盛り上がり、男3人でビール2缶、紹興酒4合、剣菱1升、麦焼酎4合を空けた。

ここで「じゃっぱ汁」について。冬の秋田沖には大量の雪が降る。水面下300Mのところを泳いでいる真鱈は予め防寒のため脂を大量に巻いている。太平洋ではこうは行かない。

真鱈の身は普通の人が買ってゆく。通は「じゃっぱ」を買ってくる。頭や鰓(えら)など、要するに捨ててしまう部分である。秋田杉から柱を製材した後の皮の部分を「じゃっぱ」ないしは「ざっぱ」と秋田弁では言うことから捨ててしまう魚の部分もそのように呼ぶ。

ところが真鱈の「じゃっぱ」は鍋にして食べると実に美味であることを漁師たちは早くから知っていた。焚き火の中で音を立てて煮あがる大きな鍋に塩を一掴み入れ「じゃっぱ」を投げ込む。有れば葱、白菜、豆腐も入れる。これで完成。津軽の「じゃっぱ」は味噌味だそうだが。

私の亡くなった義母は殿様に血縁を持つ人だった。「わたしは食べたことのない物は食べません」といって「じゃっぱ汁」を初めは拒んだが、娘に奨められて食べた。無言になった。

翌日、浅草の料亭に納めている魚屋へ行ったらしく、真鱈のそれらしき物を買ってきて「じゃっぱ汁」を作った。美味かったということだろう。

だが真鱈は真鱈でも太平洋の鱈。脂がさっぱり乗っていなくて美味しくない。だから日本の表を自称し太平洋岸に住まいする人々が真鱈の頭や臓物を食べようとしないのは当然なのである。


秋田でも津軽でもそうだが、市場では新鮮な魚の真ん中に「じゃっぱ」が大威張りで鎮座している。もちろん値段は格安である。カネのある人は真鱈の身を買ってゆくが、通は身には目もくれない。

私は秋田県の有名な進学校の卒業生だが、同期生はみんな、それこそいいとこの出身者。幼少のころから「じゃっぱ汁」など無縁だった。東京て大学を出て就職。東京の女性と結婚。遂に「じゃっぱ」を知らずして終わるところだった。

10年ぐらい前、同期会の席で「じゃっぱ汁」の話をしたところ、中の一人が義侠心を発揮、「よし、俺の家で正月にそれをやろう」となった。生まれて初めて食べるものだったはず。ものも言わずに大きな椀で3杯も平らげる奴がいた。

以後、参加希望者が相次ぎ、今では15人ぐらいに膨れあがって、なお希望者がいるが、如何せん、座敷に限度があって、お断りしている。

秋田人だから日本酒、焼酎で毎年、大いに盛り上がる。冬晴れの下で秋田沖の「じゃっぱ」を食べられるとは当(まさ)に宅配便のお陰。国鉄の無くなったお陰である。

秋田の海岸にしかやって来ない産卵の鰰(はたはた)も東京に居乍らにして味わえるわけで、寒さに耐えている故郷の人々には誠に申し訳ない次第である。

だが、どうしても東京では食べられない物がある。鉈漬(なたづけ)である。晩秋に収穫した太い大根を、良く切れなくなった鉈でざくざくと乱切りにしたあと、樽に塩と麹でまぶして漬け込む。

これを雪の降り出す頃、樽から取り出して食べるのだが、鉈で切った表面が塩と麹をよく吸っているから実にまろやかな味になっている上に飴色に漬かっていて堪(こたえ)られない。

樽の表面には氷が張っていたりして冷たいが、その氷がちょっと混じっていたりして美味。

東京で試みたことがあるが、冬が暖かいから、漬かる前にすぐ酸っぱくなっていけない。冷蔵庫を使えば、と考えたが家人に当然、断られた。それはそうだ、冷蔵庫に他の物が入らなくなるもの。

日本橋のデパートでは青森の業者が冬になると販売にやって来るが、砂糖の味が濃すぎ、麹の甘さと全く違う味になっていて、1回で懲りた。おそらく防腐剤消しに砂糖を多用するからだろう。

こうして本物の鉈漬こそは秋田でしか食べられない物になったが、漬けてくれた母が死んで3年が経った。もう永遠に食べられないだろう。2006.12.18

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