2006年12月20日

◆合理的は正しいか



        渡部亮次郎

合理的が真理と考えている人が案外、多いが、「合理的」に反対することが日本の労働運動の主流を形成していた時期があったことをご存知か。

戦後、工場におけるロボット反対闘争のことである。労働を無条件に際限なくおこなうロボットが職場に導入されれば、低賃金に喘ぐ労働者は排除されると言う誤れる論理に根ざした労働運動の流れだった。

言葉の面白い引例で解説する辞書で有名な「新明解 国語辞典」によれば合理化とは「人員整理・労働強化や具術導入により生産性を向上させようとすること」とずばり言っている。

労働組合はアメリカ製憲法を遵守せよと合理を迫りながら経営者にはロボット導入による合理化には断固反対と矛盾した要求を続けたものだ。

間違いだったから、跡形もなく消えたが、「合理化」はアメリカの思想として日本でも生きき続けている。労働の合理化はロボットに代わられると言う総評の主張も狂っているが、経営者側も確実に反論できなかった事は情ない。

合理化という言葉は日本にはもともと無かった言葉だったからではないか。日本人は言うなればすべて以心伝心で意思伝えてきた。「目は口ほどにものを言い」で用が足りてきた。

ところがアメリカとの戦争に負けた。日本人が戦争に負けるのは有史以来初めてだったから、進駐軍としてのアメリカを平穏のうちに迎えたが、進駐軍の持ち込んだ哲学こそが「合理的」だったように思う。


合理的。@道理や理屈にかなっているさま A物事の進め方に無駄が無く能率的であること。(広辞苑)

物事の進め方に無駄が無く能率的であること、という思考は戦前の日本人には無い価値観だった。中にはこのように考える人もいたろうが、大部分は「長いものには巻かれろ」「泣く子と地頭には勝てない」であり、処世の術として「合理的」とは誰も持出さない論理だった。

握手と言うのも戦後、アメリカが持ってきたものだ。あれは狩猟民族が森の中で出合った人間に敵愾心も武器も用いないことを身をもって示すために出来上がった習慣。日本人はお辞儀で済ました。

アメリカ大陸に渡った狩猟民族は農耕民族に衣替えしながら握手の習慣が治らなかった。ついでに曇天の欧州では想像もつかなかった太陽の眩しさに閉口してサングラスを手放せなくなった。

馬鹿な日本の若者は、必要にないはずなのに、風俗と誤解して戦後、こぞってサングラスを掛けだした。今では己の容貌の醜さを隠す必需品らしいが。

アメリカは土方(どかた)の飯場(はんば)みたいな非文化的な国だと思うが、人種の坩堝(るつぼ)と言われるほどの多民族国家であるから、社会生活を共にするキーワードは単純明快な言葉でなければいけない。多数決がその最たるもの。

「理に適っている」合理化こそはそれに適合した言葉だったのだ。
raisonal。これほど公平で無差別な言葉はなかった。俺もお前も同じ条件。とはいえ人間はもともと平等なんかではない。無理して平等をルールにしているだけだ。

人間は気候風土に左右されて多様な文化を作り、それぞれに似合った宗教を持ち、言語を持つ。それなのにイラクにも民主主義が合理的だと押し付けようとした結果がイラク戦争の現状ではないか。あの砂漠の砂嵐の中では悠長な話し合いなどはできない。アメリカはそれに気付けばイラクを見捨てるだろう。

脈略のない話だが、礼儀だって民族で異なる。「有難う」を英語ではthank you 汝に感謝す と言うが 有難うはこの世に有り難いほどの感謝の意であって tank you 程度の感謝ではない。

「済みません」だって I am sorry だけではない。これは相手に迷惑を掛けた自分の非を認め「償い済まない」ことを詫びる律儀で美しい心根を示しているのである。合理的ではない美しさを持っている。

アメリカは人種の坩堝なら文化も坩堝上になった。しかしてそれらが円満に暮して行くためには、単純な価値基準でお互いを規制する以外にない事は納得できる。それがアメリカ式合理性であり民主主義ではないか。

逆にいえば民主主義こそは歴史と伝統に根ざさないアメリカ人を平均的に納得させるだけの方便であって、アメリカ向けの合理性に過ぎない。

それなのにアメリカ式がすべて合理的で正しいと決めてかかる事は
まったく合理的でない。

ところで現状の日本で合理的な日々なんてあるだろうか。アメリカでは考えることすら出来ない義理人情、しがらみがすべてではないかと思えるほど非合理の日々である。2006.12.12
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