2006年12月22日

◆チャイコフスキーは



        渡部亮次郎

LPレコード だったかどうか記憶がない。高校1年のころ。萱葺き屋根の自宅にこもって洋楽のレコードを初めて聴いた。昭和26年の冬。敗戦から6年しかたっていなかった。

LP(ロング・プレイ)レコードはアメリカ人ピーター・ゴールドマーク(Peter Goldmark)が開発、1948(昭和23)年6月21日にコロムビア社から最初に発売された、とあるからユーモレスクはLPで聴いたのかも知れない。

直径12インチ (30 cm) で収録時間30分。これまでよりも長時間再生できるので、LP (long play) と呼ばれた。また、回転数から33回転盤とも呼ばれる。SPより音溝(グルーヴ)が細いことから、マイクログルーヴ(Microgroove)とも呼ばれた。SPは僅か3分半しか収録できなかった。だから演歌はなにが何でも3分半に押し込められた。

これ以降、従来のシェラック製78回転盤は(主に日本で)SP (standard play) と呼ばれるようになった。 すべてがモノーラルであり、LPはすべてステレオだったように思う。しかし、やがてレコードという物が廃れて行く時代になる。

1982(昭和57)年10月、日本ではソニーから最初のコンパクトディスクプレーヤー(CDP-101)とCDソフトが発売された。同時に、レコード店で取扱いが始まったが、当初は「レコードよりも音質がよく、ノイズがないニューメディア」として扱われた。レコードと同じ商品のCD版として売られ、価格もレコードより2割ほど高かった。

話がすっかり横道にそれた。昭和20年代の通学は蒸気機関車による「汽車通学」。汽車の中でまで教科書を開くガリ勉野郎もいたが、こちらはそんなことをしないのがダンディズムという方。

毎朝、秋田駅に降りるとホームのスピーカーから快いクラシックが流れた。毎朝同じ曲が流れた。仲間に聞いても分らない。そのうちに卒業して東京。ラジオもレコードも無縁のバンカラ生活。卒業してからも多忙を極めた政治記者生活と秘書官生活。

50を過ぎてようやく時間的な余裕が出来、レコードを聴くようになり、秋田駅で聴いたあの曲はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op23だったことを知った。

同時に様々な解説書を読んで、彼が同性愛者であり、それを責められ、毒を呷って死んだらしいことも知った。その時はシューベルトが梅毒持ちだったことと同じようにショックだった。


ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Пётр Ильич Чайковский 1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) ―1893年11月6日(ユリウス暦10月25日)はロシアの作曲家。

バレエ音楽や6つの交響曲などで有名。ボロディン、バラキレフ、ムソルグスキー、キュイ、リムスキー=コルサコフのロシア5人組の国民楽派に対し、チャイコフスキーは西欧派と呼ばれる。

叙情的で流麗、メランコリックな旋律、絢爛豪華なオーケストレーションでたいへん人気がある。クラシック入門などの企画では必ずチャイコフスキーの曲が挙げられる。

作風はリズムの天才と言われ、1つのフレーズを発展の連結にしたり、半音階上昇させたり、または下降させたりと他の作曲家には見られないものがある。曲想はメルヘンチックであり、ロマン濃厚といわれる表情が見えたりする。

チャイコフスキーは同性愛者であったとされ、当時のロシアでは重大問題であったがための苦しみが作品にも反映しているとして、この方面から解釈する見方もある。

チャイコフスキー初期の作品ピアノ協奏曲第1番は、現在でこそ冒頭の部分などだれでも聞いたことのあるほどのポピュラー名曲だが、作曲された際にはニコライ・ルービンシュタインによって「演奏不可能」とレッテルを貼られ、初演さえおぼつかない状態にあった。

同様に、現在では同ジャンルで超有名曲の座にあるヴァイオリン協奏曲も、名ヴァイオリニストのレオポルト・アウアーからやはり「演奏不可能」と烙印を押された。

この曲はアドルフ・ブロツキーのヴァイオリン、ハンス・リヒター指揮でヴィーン初演されたが、聴衆の反応は芳しくなく、このころ評論家として名を馳せていたエドゥアルト・ハンスリックは「悪臭を放つ音楽」とこっぴどく酷評した。

ブロツキーはめげずにこの曲を演奏して各地をまわり、次第に人気が高まってくると、ようやくアウアーも評価を改めて自分も取り上げるようになったという。

最後の交響曲「悲愴」も、初演時の聴衆の反応は好ましいものでなかったとされる。しかし、これは曲のもつ虚無感と不吉さえ感じさせる結末のただならなさ故かもしれない。

なお、周りの不評にいつも落ち込んでいたチャイコフスキーだったが、「悲愴」だけは「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と自負するほどの自信作だったようだ。

モスクワ音楽院で教鞭を執っていた1868年にチャイコフスキーはデジーレ・アルトーというメゾ・ソプラノ歌手と恋愛し、結婚まで考えたが、デジーレが別のバリトン歌手と結婚したために果たせなかった。

その一方で、チャイコフスキーは同性を深く愛しており、以前からこの噂があったために、アントニナとの偽装結婚を決めたといわれている。

死因については、コレラによるとする説が一応の定説と考えられてきたが、1978年にオルロヴァが発表した説によると、チャイコフスキーはある貴族の甥と男色関係を結び、貴族の訴えによって秘密法廷が開かれ、そこで砒素服毒による自殺が決定・強要されたという。

一方この説に対しても、チャイコフスキーを診た医者のカルテなど、残されている資料から、やはりコレラ及びその余病である尿毒症、肺気腫による心臓衰弱が死因であるという反論が出された。

ただしこの反論も彼が同性愛者だったのではないか、と言う説そのものについては否定していない。

(参照『ウィキペディア』)2006.12.20

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック