2007年01月07日

◆楽聖ベートーヴェン

                   渡部亮次郎

日本で一番好まれているクラシック音楽の作曲家は誰か。モーツアルト
かと思ったらベートーヴェンだそうだ。西ドイツ時代の首都ボンにある
彼の生家を訪ねたことがあるが、折悪しく休館日だった。

2006年の歳末近く、NHKの大先輩が87歳で逝去された。東大を出て徴兵さ
れ、敗戦時には南方でアメリカ軍の捕虜となった。復員後NHKに事務員と
して入り、間もなく記者第1期生としてニュースの自主取材を開始した。

定年後、夫人に先立たれ、再婚。北軽井沢に隠棲するように暮されてい
たが一昨年、脳梗塞を発症。リハビリの途中、昨年(2006年)再発、とう
とう11月に新宿の病院で逝去となった。

亡くなる1か月ぐらい前、自宅に電話を戴いた。昭和33〜34年ごろ、NHK
仙台放送局報道課長当時の部下が懐かしがって集まる会に、今年も来れ
ないという電話だったようだが、残念ながら口の縺れは聞き取れなかっ
た。

東京・杉並区で営まれた葬儀は無宗教。沢山の花に飾られた祭壇にカラー
の遺影が置かれた以外、何もなし。30分ぐらい故人の好きだったベートー
ヴェンの曲で故人をしのんでください、とのことだったが、私にははじ
めての曲で、曲名の説明まではなかった。

私は老人になるまでベートーヴェンは聴かなかったが、昔の青年たちは
競って聴いたものらしい。右の大先輩は1分間78回転のSP(無ステレオ)で、
せわしなく交換しながらベートーヴェンを聴いたことだろう。



ベートーヴェンを聴かなかったのは臍曲がりだからである。あの第9と
やらを歳末になぜ歌うのか、わけも分からず歳末に第9を歌う日本の人々
の神経を理解できなかった。いまはもっと理解できない。

先輩のモーツアルトは音楽というものを楽しく、軽やかに流しているよ
うに感じるが、ベートーヴェンは常に苦みばしり、考え込み、叫んでい
るように感じて仕方がない。時には演説をしている。

特にピアノ協奏曲の≪皇帝≫とされる第5番変ホ長調作品73は沈思黙考、
懊悩し、演説しているようだ。なるほど文句のつけようのないさながら
皇帝のような曲だが、私には疲れる。

頭脳明晰な青年は1度は必ず共産主義思想にかぶれたという戦前の重苦し
い世相の中では、ベートーヴェンが一番の共感であり慰めになったのか
もしれない。一時は良く≪皇帝≫は聴いていたが、最近は遠のいている。

ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770
年12月16日ごろ(洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかってい
ない)―1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。ボン生まれ。(ボンは全
くの田舎だった)。

音楽家として最高の「楽聖」の称号が与えられている。彼の音楽は、ハ
イドンやモーツァルトらが形成した古典派音楽の集大成とされる。

ベートーヴェンは背丈の低い醜男(ぶおとこ)だったという。どす黒い色
の顔は天然痘の痕で酷く荒れていた。普段の表情に関しては、写真の無
い時代だが、有名な肖像画の数々や、デスマスクのほかに生前ライフマ
スクを作っていたこともあり、程度判明している。

また、若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってからは一
向に構わなくなり、「汚れ熊」が彼のあだ名となった。

性格は、ゲーテに「その才能には驚くほかないが、残念なことに傍若無
人な人柄だ」と評されるように、傲慢不遜であったとされる。

ちょっとした集まりで何か弾くよう頼まれてもまず弾く事は無く、『フィ
デリオ』など演奏家達が演奏の困難さを訴えても直す事は無かった。

そうした頑固さは作品にも反映されている。非常に厳しかった反面、実
は冗談・語呂合わせを好んだ。諧謔性が発揮された作品も幾つも残って
いる。

ベートーヴェンはカトリック教徒で、キリスト教的な倫理観に忠実であ
ったが、バッハやヘンデルのような正真正銘の敬虔なキリスト教徒とは
いえなかった。

実際、素朴な信徒だったハイドンからは無神論者と呼ばれた。また、ミ
サ・ソレムニスの作曲時においてさえも「キリストなどただの磔にされ
たユダヤ人に過ぎぬ」と発言したとされる。

このように権威にとらわれない自由で自然な彼の宗教観が、ミサ・ソレ
ムニスや第9交響曲に普遍的な感動を与えたといえる。

ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文学ではあくまでもゲーテ
やシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本
業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルト、ハイドンなどから最も
影響を受けた。

その他にも、フランス革命とその後の保守反動の嵐の時代に生きたベー
トーヴェンは、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。

また、哲学者カントの思想に接近し、実現はしなかったがカントの講義
に出席する事も企画していた。当時の天文学についての書物を深く読み
込んでいたとも言われている。

だから彼はまともな教育は一切受けていないにも拘わらず、当時におい
てかなりの教養人であった。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、その作品は公
式・私的行事のBGMや機会音楽として作曲されたものがほとんどであった
が、ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否した。

むしろ一般大衆に向けた作品を発表する、自立した音楽家の嚆矢となっ
た。史上初めて音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明は、音楽
の歴史において重要な分岐点となる。

ベートーヴェンは20代後半から始まった難聴が次第に悪化し、晩年の約
10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。しかしそれでも弦楽四重奏曲
を書き続けているので、スメタナのように完全に聞こえなくなったとは
考えにくい。

近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍以上の鉛が検出されたこと
から原因が判明した。

ベートーヴェンはワインが好物で、腹痛を紛らわす目的も含めて常飲し
ていたが、当時のワインには酢酸鉛を含んだ甘味料が加えられており、
この過剰摂取による鉛中毒がそもそも慢性的な腹痛・下痢の原因になっ
ていた悪循環の可能性が高い。

また鉛中毒はまれに難聴を引き起こすことから、耳疾の原因としても有
力になっている。

晩年は、慢性的な腹痛や下痢など徐々に悪化する体調に加え、甥カール
をめぐる養育権争いやカールの自殺未遂事件が起こり、私生活では苦悩
の日々を送っている。

それでも難聴の中で交響曲9番やミサ・ソレムニスといった大作を発表し
た前後からの晩年の作品群は、難解かつ崇高な精神性を湛えており、ベ
ートーヴェンが最後に到達した境地の高さを示すものとなっている。

1826年、病に罹った彼を、シューベルトなどが見舞いに訪れるなどして
いたが、翌年1827年3月26日、その波瀾に満ちた生涯を終えた。享年56。
葬儀にはのべ3万人もの人々が駆けつけ異例のものとなった。生涯独身。

伝説によれば、臨終の間際、すさまじい雷鳴とともに稲妻が閃いた。ベー
トーヴェンは右手の拳を振り上げ厳しい挑戦的な顔をし、遥か高みを数
秒間にらみつけた後、その目を永遠に閉じたのだという。

臨終際、「Plaudite, amici, comedia finita est.」(諸君、喝采を、
喜劇(お芝居)は終わった)と発したとも伝えられている。(参照『ウ
イキペディア』)2007.01.02


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック