平井 修一
通名(つうめい)とは、通称名の略。本名ではなく、一つ、もしくは複数の通称名を名乗って生活することは、法律的規制がないため原則自由である。現在、一般に「通名」とは外国籍の者が日本国内で使用する通称名を指す。
通称名で有効な法律行為を行うことは原則としてできないが、例外がある。在日外国人の通名は、居住する区や市町村に登録することで、住民票に記載され、法的効力を持つ。
登記などの公的手続に使用することが認められ、 契約書など民間の法的文書にも使用できる。印鑑登録証明書や運転免許証の氏名欄には、本人の申請により本名に加え、通名の併記が可能である(例:氏名 金美淑(木村淑子))。
<所謂「在日特権」であるという意見もある。例えば、通名による銀行口座開設が可能であり、架空口座としてマネー・ロンダリングなどに使用された例がある。
また、通名の変更には制限がないため、東京23区内では1人が最高で32回の通名変更を行った事例があり、頻繁な通名変更は別人に成り済ますことが可能として、通名制度を犯罪と不信の温床であるとする意見もある>(ウィキ)
報道などでは原則として本名とし、カッコ内で通名を併記すべきだろう。
<ルーシー・ブラックマンさん殺人事件の犯人、織原城二が元在日韓国人「金聖鐘」であるということは、実は事件当時からマスコミでは知られていた。しかし、どこも報じなかった。「金聖鐘」であると最初に報じたのは、TIME誌だった>(オフイス・マツナガのブログ!)
日本のマスコミは一部を除いておかしいのではないか。本名を優先するのが常識だ。
今の日本人は結婚や養子縁組で改姓しない限りは、通常はたった一つの姓名で一生を通す。赤ん坊の平井修一は棺桶に入っても平井修一である。便利は便利だが、味もそっけもない。昔の人は名前がいっぱいあった。ことあるごとに名前を変えた。それがいいことかどうかは分からない。
例えば戦国武将の斎藤道三はこんな具合だったという。峰丸(幼名)→法蓮坊(成長して学問僧)→松波庄九郎(還俗)→奈良屋庄九郎(商人に入り婿)→山崎屋庄九郎(商号変更)→松波庄九郎(再び武士)→西村勘九郎(美濃に仕官)→長井新九郎(名家を継ぐ)
→斎藤左近太夫秀龍(守護代家を継ぐ)→斎藤山城守利政(美濃国主となる)→斎藤道三(出家)。
本人もいちいち憶えていられないくらいだ。
徳川家康は松平元信→元康→徳川家康と名前を変えている。幼名は竹千代、松平元信時代からの通称は次郎三郎。1567年(永禄9)に勅許を得て徳川氏に改姓。
吉田松陰は幼時の名字は杉。幼名は虎之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱(いみな、本名)は矩方(のりかた)。字(あざな、実名以外につけた名)は義卿(よしさと)、号は松陰の他、二十一回猛士。
号(ごう)とは、名や字以外に人を呼ぶ際に使われる称号。自身で名付けたり、他人によって名付けられる。
西郷隆盛は名(諱)は元服時には隆永、のちに武雄、隆盛と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲。
一時、西郷三助、菊池源吾、大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。本名は8代目吉之助隆盛と言う。
大久保利通は幼名は正袈裟(しょうけさ)。元服し、通称を正助、諱は利済と名乗るが、後に島津久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める。慶応元年(1865年)に利通と改諱する。
木戸孝允(桂小五郎)は、「木戸」姓以前の旧姓は、8歳以前が「和田」、8歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称である。命を狙われ続けた幕末には、新堀松輔、広戸孝助など10種以上の変名を使用した。
「木戸」姓は、第2次長州征討前(慶応2年)に藩主毛利敬親から賜ったものである。
「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱であったが、戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰して以降、自ら諱の「孝允」を公的な名前として使用するようになった。
現在では使用目的に応じ、筆名、雅号、画号、俳名、芸名、源氏名、狂名、候名などがある。
作家や芸人は筆名や芸名を持つ。夏目漱石の本名は金之助。俳号は愚陀仏。永井荷風の本名は永井壮吉。号に金阜山人(きんぷさんじん)、断腸亭主人(だんちょうていしゅじん)ほか。太宰治の本名は津島修治。辻島衆二、小菅銀吉名義でも文章を書いていた。司馬遼太郎の本名は福田定一。
先頃亡くなった十八代目・中村勘三郎の本名は波野哲明(なみののりあき)。子役時代から五代目・中村勘九郎を46年間名乗っていた。
<「頂門の一針」から転載>