2013年01月31日

◆戦犯死刑囚を救った歌手

渡部 亮次郎


捨てられる運命にある歌謡曲のCDたち。せめてその前に聞き収めてやろうと若干をMDに納め、散歩しながら聴いているが、2013年1月30日に聴いたそれには渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」が納まっていた。

何十年かぶり、涙を抑えながら聴いた。私が涙を抑えるなんて。戦犯死刑囚を救ったこの歌の経緯を振り返ってみよう。

「ああモンテンルパの夜はふけて」は、渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした流行歌で、1952年(昭和27年)9月、ビクターレコードから発売された。

作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康。

2人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。フィリピンは日米戦争でマッカーサー元帥相手で最大の激戦地だったところ。

戦争が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に対する軍事裁判が行われた。戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて裁かれた。

A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の計画、開始、遂行等、B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、C級は「人道に対する罪」。

戦前・戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為である。B級は従来の戦争法規に規定されていたが、A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月のロンドン協定で新たに設けられた罪科だ。

日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された国際軍事法廷で行われましたが、B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに行われた。おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告さた。

しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいいかげんなものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なくなかったが、軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども含まれていた。

文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係のない者が刑を受けた例もかなりあった。

勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしがない。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の色彩を帯びるのが普通だ。

昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞かされた。

戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送った。

6月になって、当時神奈川県鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いた。封書には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。

作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていた。

「モンテンルパの歌」は、収監されていた日本人111人の望郷の念を込めた曲であった。

封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。

(一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

(2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのこと)。

戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいるなんて。

これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。

戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡辺はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフフィリピンへ渡ろうとした。

当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり1年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。

それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・

昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。

もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。

会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあった。

半年後の昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から1つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。

そのころ、加賀尾はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。

加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。

暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。

じっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。

大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。

しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」

死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。

横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。 参考(「二木紘三のうた物語」) 2013・1・30

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