2013年02月02日

◆歴史を歪曲する福田康夫

渡部 亮次郎


友人の元林野庁長官から1月26日の宴席で小さな新聞の切抜きを渡された。<人物抄 園田直 派を除名「心はさわやか」>とあった。わが師園田のこと、高校同期のよしみで、わざわざ持って来てくれたのか、ありがとう。宴席でもありポケットに入れた。

ところが翌日改めて見ると記事には並んで「証言 大福密約はなかった」という元総理大臣福田康夫さんの談話が載っているので、些か驚いた。歴史を歪曲し、相手の大平正芳氏を誹謗するものである。

切り抜きは読売新聞からの物だが、残念ながら日付をたしかめようがない。手渡された経緯から判断して2013年1月中のことと思われる。

ご承知のように康夫さんは先の総選挙に出馬せず、イスを長男達夫さんに譲られた。肩書きは元総理大臣だけれども、その前は父親赳夫(たけお)氏が総理大臣のときは首席秘書官だった人物。

福田赳夫内閣で私は外務大臣園田直(すなお)の秘書官だった。康夫さんからは「親父の総裁再選に直(ちょく)さんがもっと真剣に取り組むよう、ナベさんから、つっついてくれよ」と赤坂の料亭に呼ばれてそれこそ突っつかれたものだ。

しかし私は返事の仕様が無かった。「密約」の事実を大臣から聞かされていたし、事実、園田を官房長官から外務大臣に追う際、総理が園田に囁いた理由は「例のことをしゃべりすぎたね」だった。総理自信「密約」を再確認していたのである。

園田は官房長官の末期、幹事長の大平氏と何度も極秘に会談し「任期2年」の密約をせめて1年延長するよう懇願し、大平氏も了承に傾きかけていた。

私は左遷先の大阪から東京に戻っていたが政治部のある報道局ではなく国際局の副部長と暇な部署だったので、予ねて懇意の園田氏と夜に公邸で度々会って経過を聴いていた。大阪へ飛ばされる1年前は福田派担当記者だった。

だから昭和52年11月の内閣改造の際、私に園田氏から「秘書官になってよ」と言う電話があったとき、当然官房長官秘書官だと確認し家を出た。ところが総理官邸に着いてみたら園田氏は前閣僚からたただ一人居残り、ポストだけが外務に変わっていた。

後で調べると、福田総理は早くから園田氏を官房長官から外すことを決意していた。それは昔の親分岸 信介氏からの要請に応えるためだった、<晋太郎(女婿)を官房長官にしろ>。

とはいえ、政権樹立最大の功労者園田をいきなり外に放り出すと何を仕出かすか分からない。危険だ。そこでただ1人残し、No2の外務大臣なら文句あるまいと踏んだのである。

このとき世間もマスコミも此れは日中平和友好条約締結への積極論者だった園田をして条約を締結させるものと総理のハラを読んだ。しかし園田の受け方は全く違っていた。まず怒った。「密約反古の人事だ」。

確かに福田氏は次第に大平氏と距離を保つようになり、あろうことか自らは「降ろした」筈の三木武夫氏や選挙区ではライバルの中曽根氏と距離を縮め、とくに中曽根を総務会長に起用した。長期政権を展望させる布陣ではないか。

かくて大福密約は軽々しく反古にされ、総裁選挙は予備選挙で「死闘」の展開となったが、福田氏は「予備選挙に負けて方は本選挙を辞退すべき」など自信満々だったがあっさり敗北。大平と角栄の恨みを買ったのだ。なのに全く反省のないまま「天の声にも時には変な声がある」と嘯いて官邸を去った。

園田は既にこの結果を予測し、田中・大平陣営に近付いていたので外務大臣は再選。しかし、「大平のあとは再び福田」と言って福田陣営をけん制したが、40日抗争を経て福田派を除名され、「政界の逸れ鴉」と成り果てた。

しかし大平が急死した後、角栄邸にかけつけあっという間に鈴木善幸を次の総理に祭り上げた。外人記者たちは言った。
Zenkou Who?

康夫さんは紙に書かれた「密約」を見ていない。私はみた。それはそうだ赳夫親父としては「ほれ、この通り密約があるのだ」と息子にみせるわけにはゆかない。恥辱だもの。

康夫さんは、だから悪いのは大平で「密約なんて無かった」と言いたいのは当然かもしれない。しかし約束を破ると言う罪を初めに犯したのは福田赳夫であり、予備選で負けたことを逆恨みしたのは矢張り福田である。

福田に苛め抜かれて死んだのは大平だった事は歴史的事実である。
予ねて糖尿病を患っていた大平さんの心筋梗塞は政争のストレスによる急死だったのだ。

康夫さんがあんなことを言わなければ私はこんなことを書きたくなかった。

赳夫さんはその5年前、角福戦争に敗れた。政権はその後更に三木に渡り、今度こそ獲得しなければ永遠に遠くなりそうだった。だから「たとえ半年でも3ヶ月でも」と懇願するように呟いた。だから園田はまだ「政敵」だった角栄に頭を下げた。それが「密約」だった。

園田と言う人はその実、実直で、小心な人だった。一番嫌いだったのは注射。だから糖尿病なのにインスリン注射から逃げまくった。小心だから却って武道家としても名をなし、結婚を3度もした。嘘をつけない人だった。その園田も政界はぐれ鴉に成り果てた末、糖尿病の悪化で人工透析をする身となり最期は盲目で死んだ。まだ70だった。 2013・2・1

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