2013年02月09日

◆絨毯に痰を吐く中国外交官

渡部 亮次郎


敗戦直後のわが国内の電車は凄かった。皆が窓から乗り降りした。だが、それは1年してなくなった。電車には行列を作って並んだ。デパートのエレヴェータ前で行列を乱す人はいなくなった。

昔、香港へ観光旅行に出かけた。そこからマカオへ出かけようと港へ行って驚いた。乗船行列への割り込みが常態化しているのである。急いだって急がなくたって、行き先は船内。

何故急ぐのか。要するに自己中心。得手勝手が中国なのである。恥とか外聞なんて気にする奴は中国にはいない。

1972年9月。私は首相特別機に同乗を許されて初めて中国を訪問した。そう、田中角栄首相による「日中国交正常化」交渉に同行取材をするためだった。

しかし、周恩来首相と半ば強制的に記念撮影をされたものの、日中交渉の現場は取材は勿論、撮影すら許されなかった。何が行なわれどのようなメンバーやらも分からないまま、ある日、共同声明の紙を渡されておしまい。これが同行取材の真相だった。

田中首相は周恩来総理に伴われて小型機で上海を訪問したので私たちも別の飛行機で同行したが、市内で我々を見る上海市民の視線には強烈な敵意がこもっており、恐怖を感じてホテルに逃げ帰ったものだ。

「中日友好!」は中国政府が勝手にでっちあげたものに過ぎない。「日中友好」は日本が言うものではない。中国が自分たちの都合のいいときに使う得手勝手の常套句に過ぎない。

こうして同行取材は終わったが、間もなく東京でホテル・ニューオータニの社長に話を聞いてびっくりした。北京からやって来た大使館員たちがホテルの廊下を歩きながら絨毯に痰を吐くので参る、というのだ。

彼らは国交回復に伴って大使館を開設するためやって来た外交官。ニューオータニを宿舎に滞在しているのだが、このように室内外の絨毯に痰を吐くばかりか、ベッドを解体すると言うのである。訊けばスプリングが効きすぎて眠れないとのことだった。

そういえば。余談だが毛沢東は生涯、板敷きのベッドで寝たと聞いたことがある。

それから6年の歳月が流れた。突然、NHK政治記者から福田赳夫内閣の園田直外務大臣の秘書官に発令され、折から熱を帯びていた日中平和友好条約締結を巡る取材合戦を捌く立場になった。

1978年8月8日、特別機で羽田を出発。翌日から人民大会堂で交渉は始まった.しかし難航を予想して来たのに中国側はわが方の主張を全面的に受け入れ、あっという間に妥結した。

そのあとトウ小平副首相との会談が設定された。そこで園田大臣が私に言うことには「何とか、あの痰壷に1度でいいからペツとやってみたい」という。賓客の前で国家の指導者たちが臆面もなく痰を吐くことが如何に失礼かを見せてやりたい風だから、とめなかった。

なるほど日本側には置かれていないがトウ氏の足元には痰壷が予め置かれている。会談の半ば近くなったころ園田氏は「カーツ」とやったかと思ったら、のこのことトウ氏の目の前に行き「ペツ」とやったのである。トウ氏は驚いた風だったが何も言わなかった。

中国人は何故痰や唾を吐くか。常に黄砂が待っているため、口の中が常にざらついているからだといい訳する。しかし仮令そうだとしてもチリ紙に吐けばいいのであって道路や絨毯に吐くのを正当化できるものではない。要するに得手勝手なのである。

国際人前田正晶氏の論である「謝罪の文化」など通用する国民ではないのである。園田氏は帰国後、田中健五編集長との約束により
単独インタビューに応じたが、後日、私のつけたタイトルは「トウ小平の痰壷」だった。
       2013・2・08

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