2013年02月16日

◆文化大革命の毛沢東

渡部 亮次郎


1972年9月、日中国交正常化の際、毛沢東はまだ健在だったが、訪中団で面会できたのは首相田中角栄、外相大平正芳、官房長官二階堂進の3人だけ。通訳や随員も不可。もちろん記者団にも姿を晒さなかったから私も見なかった。

私はその6年後、こんどは外務大臣秘書官として訪中したがその前の1976年9月9日に毛は82歳で死んでいたので、面会したのは毛主席紀念堂に飾られた遺体であった。

ところで1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。

だが実態は、失脚者毛沢東が引き起こした権力奪回闘争であった。大躍進政策の大失敗により国家主席を辞任して以来、危機感を深めた毛沢東が、劉少奇国家主席やトウ小平らから権力を取り戻すために仕掛けた大規模な権力奪還闘争に過ぎない。略称は文革(ぶんかく)。

「政治・社会・思想・文化の全般に渡る改革運動」のはずが、実際にはほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開された。

結果的に約1,000万人以上(異説では3,000万人)と言われる大量虐殺とそれに伴う内戦へと発展、国内は長期間にわたる混乱に陥った。

始めは毛沢東指示の下、国家主席劉少奇からの政権奪還を目的として林彪の主導により進められた。

林彪の毛沢東暗殺失敗に伴う国外逃亡時の事故死後は、毛夫人江青ら「四人組」に率いられて毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争に大衆を巻き込んだ大粛清であったに過ぎない。

共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医者などの知識人等が弾圧の対象となった。尖兵実働隊が紅衛兵(男女)だった。

その後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが甚大な被害を受けた。これによって中国の経済発展は20年遅れたと言われている。一般の革命とは一線を画すクーデターだった。

1966年から10年にわたって吹き荒れた中国の政治混乱の背景には、
(1)1949年の中華人民共和国の建国以来、中国の社会主義建設が不調であ
ったこと

(2)建国の指導者毛沢東が政治的に失脚していたこと

(3) 中ソ対立など国際的な社会主義運動の対立 などがある。

1965年11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞罷』を評す」を発表し、毛沢東から批判された彭徳懐を暗に弁護した京劇『海瑞罷官』を批判して文壇における文革の端緒となった。

1966年5月北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10名を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞が掲示されて以来、次第に文化大革命が始まった。

8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。

江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めて「五人組」であったとする見方もある。

原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。

実権派(「走資派」とも呼ばれた)と目されたトウ小平や劉少奇などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが日常的に行われた。

実権派とされた者は三角帽子を被らされ町を引き回されるなどした。吊し上げ・暴行を受けた多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉?、儲安平らは自ら命を断った。

極端なマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。

毛沢東の1927年に述べた「革命とは食事に客を招くことではなく、上品で温順でつつましやかなものではない。革命は暴動だ。一階級がもう一つの階級を打ち倒す暴力なのである」という言葉がスローガンとなって多くの人々を動かし暴力に走った。だが、中華人民共和国政府はこの事に対する、明確な説明あるいは謝罪を行っていない。

1973年8月から1976年まで続いた林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動は後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引き摺り下ろそうとする四人組側の目論見で行われたものであった。

毛沢東は「日本共産党も修正主義打倒を正面から掲げろ」「日本でも文化大革命をやれ」と革命の輸出的な意見を述べた。日本共産党は「内政干渉だ」として関係を断絶した。その後1998年に日本共産党と中国共産党は「誤りを誠実に認めた中国共産党側の態度」によって32年ぶりに関係を修復した。

評論家の大宅壮一は幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れているようすを「ジャリタレ革命」と批判した。この最中の1972年9月、田中角栄首相は特別機で北京入りし、日中国交正常化を成し遂げた。

同行した私は天安門広場に残された佐藤前政権非難のたて看板多数を目にした。北京は敗戦直後の東京を想像させた。チップは取るはずが無いという日本外務省の説明は嘘。ソヴィエトの建てたホテッルは湯が出なくて苦痛だった。

そうした矛盾を何とかしようと周恩来首相やトウ小平は現実路線を採ろうとしていたが、これを毛沢東は修正主義として非難。世の中を知らぬ青少年に倒させようとしていたのである。トウは「下放」されていて現れなかった。

1976年には、文革派と実権派の間あって両者を調停してきた周恩来、この混乱の首謀者であった毛沢東が相次いで死去し、新しく首相となった華国鋒は四人組を逮捕した。

翌1977年8月、中国共産党は、1966年以来11年にわたった文革の終結を宣言した。1981年には四人組と林彪グループに対し、死刑から懲役刑の判決が下された。

トウが復活して1978年8月、日中平和友好条約が締結され、日本の資金と技術が驚異的な経済の改革・開放を可能にし、北京オリンピックを可能にした。だが、全体主義国のオリンピックはいずれも9年後に国を滅亡させたと不気味な分析を突きつけられている。

1981年6月に中共11期6中全会では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」としている。

文化大革命期間中の中華人民共和国では大学が1972年頃まで閉鎖され、再開後も入学試験は行われず、青年は農村に下放された為、専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。

1954年生まれの中華人民共和国前駐日大使の王毅ら、中華人民共和国の指導的人物に若い世代が多いのもこれが原因である。紅衛兵、吊るし上げられた人の相違を問わず現在の中国を無批判に評価している人物は少ないと推測される。

公式コメントでは、「わが党が犯した最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「七分功、三分過」と言うトウ小平の発言が公式見解のようだ。

2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があった為に、中華人民共和国内では一切報道されなかった。この様に「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。

紅衛兵は、「赤は革命の色であるから赤信号で止まるのはおかしい。赤信号で進んで青信号で止まるべきだ」と主張した。この案が却下されるにあたっては、なんと周恩来が動いたとの説もある。

他にも、「道路の右側を通行するのはアメリカ帝国主義的であるから左側通行にすべき」との主張もあったが、帝国主義においてアメリカの先生的存在であるイギリスが左側通行との理由で取り止めになった。

当時まで粛清されずに生き残っていたかつて富農や官僚だった者が批判・迫害され、吊し上げや殺害が盛んに行われた。ついには毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞が出た。

旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。

1967年、劉少奇夫人の王光美はピンポン玉のネックレスを首からかけさせられブルジョワと非難された。

寝室に毛沢東の肖像を飾っていた新婚夫婦は「主席の前でセックスをした」と非難された。夫婦は「その時は電気を消していた」と反論した。

毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。
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