2007年01月31日

◆色をつける生き方


        渡部亮次郎

アメリカ人は知らない人に挨拶するが、われわれ日本人がそうしたら変人といわれる。知っている人にしか挨拶しない。だが同じアパートでエレベーターに乗り合わせたのは隣人だから挨拶する。だが若い人で挨拶を返す人は殆どいない。びっくりしているのだ。

中国の公衆トイレの汚さ。この世のものとは思えない。折角の水洗なのに使用者は流していかない。次に入ったひとは「なんで私が流さなけりゃいけないのよ」と流さない。次つぎにそうだからどうにもならなくなる。自己主張ばかりで、他人を思い遣るということの無い社会である。

そのくせ中国人の挨拶は「朝ごはん、食べましたか」である。食べていなければ食べさしてくれるのかといえば、そうではない。京都の「ぶぶ」と同じ。恰好付けの思いやり。何のことはない。

「色を付ける」に意味は広辞苑に出ている。「物事の扱いに情を加える。売値を安くする、祝儀を出す、景品をそろえるなどという」。昔は日常のすべてに「色を付けて」いた。中国人にはこれが元から無い。

経済の規制緩和とは「色を付ける」ことを止めることである。すべて自由に運営するが、その代わり余裕を削る。タクシーの規制緩和をやれば、台数は無限の如くに増えるが、客の奪い合いによる経営悪化に政府は責任を持たない。

色を付ける時代はストライキにも色が着いていた。職場放棄をするとき、復帰の時に困らないよう、周囲に気配りをしてから放棄したものだ。今の時代はそんなことはない。権利、権利でボウフラが沸く。


経営は今現在、株主への利益(配当)優先となれば、経費とくに人件費の削減が優先される。派遣人材、パート、アルバイト、フリーターといった「しがらみ」の無い人材を雇うことになる。もはや人材なんかではなく「駒」に過ぎない。

雇用関係ではなく人的資源の確保というぎすぎすした関係でしかない。会社の都合によりいつでも解雇される。会社にしてみれば「解雇できる」から裁量権が確保できて目出度し。

だが解雇された方には怨嗟が募る。知りえた会社の秘密、たとえば賞味期限切れの事例とかを然るべきところに洩らす。マスコミを通じて大事件になる。真実は生命にかかわるようなことではなかったのに、大事件。下手すれば倒産だ。人件費に色を付けなかったツケは大きい。

相手と自分。東京の下町に育った家人によると、戦後でも下町では彼我の区別があまり無かったという。メシを炊くコメの貸し借り、調味料の貸し借りなど当たり前。その代わり今にいうプライバシーの侵害はきりの無いほどだった。

これは相手に色を付ける生き方だったように思う。たとえば自転車。昔は車道しか走れなかった。それがマイカーが増えて車道が一杯になったので歩道を走らせるようになった。

散歩していると、後ろからいきなりチリンチリンだ。本来、ここは歩行者優先だと考えて育った老人はつい立腹してしまう。そうでなく後ろから「すみません」と一声、色を付ければすんなり行く場面ではないか。

ところが戦後生まれの人たちは、すべてが権利義務の関係、金銭の感覚でしか判断できないから「色を付けた」生き方ができない。俺もお前も料金を払って乗った電車だ。なのになんで俺が座席を譲らなきゃいけないんだ。いや、そこはダンディーに。

色を付ければ謙譲、敬老の心も出て、周りを和やかにするだろうに。馬鹿な生き方しかできない。だから子供にも色の付け方を教えられないのだ。色をつけて暮すようになれば、事件の発生件数は格段に減ると思う。一つの提唱であります。2007.01.30
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