2007年02月02日

◆東京ローズの晩年

                       渡部亮次郎

東京ローズと言っても戦後生まれの人は知らない。70を過ぎた私でも、外務省へ行って大臣秘書官として対処するまではボンヤリとしか知らなかった。大臣(園田直)は前身が官房長官(福田内閣)だったので、関係者とは以前から接触していたらしい。

とにかく評論家の上坂冬子さんを先頭にする一団が大臣室を訪れて、東京ローズ問題の善処を迫った。しかし、いま改めて記録を見ると彼女は既に(1977年)にフォード米大統領の恩赦により市民権を回復したとなっているから、上坂さんの訪問目的はなんだったのだろう。

日本外務省の、主としてOB会といえる霞関会の機関誌『霞ヶ関会会報』平成19年2月号に元マイアミ総領事小平 功さんがシカゴ総領事館勤務の際に出合った東京ローズ(厳密にいえば、そのうちの1人だった)アイヴァ・郁子・戸栗・ダキノさんの思い出を綴り、晩年のことを書いておられるので、図らずも思い出したのである。彼女は2006年9月26日、脳卒中のためシカゴで亡くなった。90歳だった。

ご承知(最近は知らない人がいる)の如く、日本は昭和16(1941)年12月8日(米時間では7日)、アメリカとの戦争を始めたわけだが、戦争は放送の電波を使っても展開された。米国兵の戦意を砕くため、女性アナウンサーを使って語りかけた。今のNHKから。「リリー・マルレーン」日本版。

今の人たちは「断ればよかったじゃないか」というかもしれないが、軍国主義時代のこと、政府や軍部の命令を断ったりしたら国賊とされ生命が無かっただろう。



女性アナは実は何人もいたようだ。ウィキペディアによると、
<対連合軍プロパガンダ放送の女性アナウンサーは複数存在したため、東京ローズが誰かは不明だが、4 ―20人いたという証言もある。終戦後唯一名乗り出たアイヴァ・郁子・戸栗・ダキノが伝説上の人物と祭り上げられた。しかし、兵士が証言する東京ローズの声や発言と、アイヴァのそれとは一致しないのが実情である>。

日系アメリカ人2世としてカリフォルニア州で生まれ、カリフォルニア大学大学院在学中の1941年7月に叔母シズの見舞いに来日したが、12月の太平洋戦争の開戦で帰国が不可能になり、2度の戦時交換船による渡航申請にも拘わらず帰米することができなかった。

生活のために1942年より同盟通信社の愛宕山情報受信部で外国の短波放送の傍受の仕事に就き、翌年にはNHK海外局米州部業務班でタイピストとして勤務するなかで、「ゼロ・アワー」と言うタイトルの音楽と喋りを中心としたラジオ番組に出演した。

この番組はオーストラリア兵捕虜のチャールズ・カズンズ少佐、アメリカ兵捕虜ウォーレス・インス大尉たちと、従軍している連合国軍兵士に対してプロパガンダ放送を行ったもので、米兵たちの間で評判となり女性アナたち全員が「東京ローズ」と呼ばれた。

1945年7月には中立国であるポルトガル人の同盟通信社員のフィリップ・ダキノと結婚

1945年8月の終戦後、米国のマスコミの関心の対象となり、「私は東京ローズ」と簡単に返事してしまったため、戦犯容疑で巣鴨プリズンに投獄される。一旦は証拠なしとして釈放される。

ところが、その後母国アメリカで反逆罪の汚名を着せられ、1949年にカリフォルニア州・サンフランシスコで開始された裁判にかけられる。裁判は終始人種的偏見に満ちたものであり、陪審員制度の問題もあり最終的に有罪を宣告され、禁錮10年と罰金1万ドルが課せられた。

しかも市民権の剥奪を言い渡されるなど、アメリカ史上に名を残す反逆者となってしまった。投獄は6年に及んだ。その後の反逆罪による起訴は60年後の2006年(アルカーイダのビデオに出演した人物)となる。東京ローズの死の直後まで反逆罪で起訴されるケースは無かったわけである。

裁判自体にも問題があったことから、1970年代には全米日系アメリカ人市民協会や在郷軍人たちによる支援活動が実って、この判決は非常に疑問視されるようになった。

結局、1977年にフォード大統領による恩赦が出たことで市民権を取り戻す事ができた。日米開戦により数奇な運命を辿ったアイヴァはその後はシカゴに住み続けた。

ここまでは当時の死亡記事でも日本の新聞に載っていたが、市民権回復から死に至る29年間については、一般には全く分からなかった。
彼女がマスコミへの不信感から絶対、取材に応じなかったためである。

小平元総領事の思い出によると、彼女は眉毛が濃く、目も大きな歌舞伎俳優のような顔立ちだった。日本語も達者で、話し方はおっとりとしていたが、歴史的事件に翻弄された人には見えなかったものの強い意志を持った人との印象だった。

「滞日中ある北欧の在日大使館に勤めたことある」と述べた、とも。

「トグリさんはシカゴのダウンタウン ベルモント街の一角で日本の商品を扱う戸栗商事を親戚と一緒に経営しており、私は時々買い物に立ち寄り、トグリさんと立ち話をした」と小平さん。

「新聞記者の取材は一切断っている」と述べたことが印象に残っている。終戦直後、米国マスメディアの取材に応じたことが投獄に繋がったからであると思われる、という。

しかしトグリさんは日本文化のアメリカへの紹介には関心を持っており、シカゴ在住の日本舞踊の師匠藤間秀之丞さんを支援していた。

小平元総領事はトグリさんと永年親交のあった旧知の元シカゴ新報記者川口加代子さんから寄せられた「思い出の記」を紹介している。

それによればトグリさんは地元の中老年の健康を守る会を設立したが、創立者である事は隠していた。また父親の出身地である山梨県人会のピクニックや新年会に参加していた。オペラ、クラシック音楽、美術が大好きだった。

元気な頃はシカゴ藤間流の後援者として会ではよく挨拶していた。

脳卒中で倒れる2日前、シカゴ藤間流20周年記念公演に出席し、とても楽しそうだった、という。「新聞記者の私がトグリさんと親交を保てたのは1度も報道の対象にしなかったからだろう」と川口さんは結んでいる。

また小平さんによれば亡くなる8ヶ月前の2006年1月に米国の第2次大戦退役軍人委員会から、「苦境にあっても、米国への忠誠心を守り続けたことを賞賛するEdward J.Herlihy Ctizenship Awardが贈られ、これにより名誉が本当に回復され、とても喜んだということである。2007.02.01


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