2013年02月28日

◆冬のアラスカを思い出す

平井 修一


2月19日は朝から小雪が舞って、終日寒かった。雪の中を犬の散歩に出かけたが、さすがに散歩人には一人も出会わなかったが、すれ違う人々は小生と犬を見て「この雪の中をよく散歩するよ」と思ったことだろう。

寒いといえば厳冬の2月にアラスカを旅行したことがある。零下15度は初体験だった。冬場は当然オフシーズンでホテルはガラガラ、そこで「日本人旅行者を誘致したい」という州の招待だったが、後にオーロラ観光で人気を呼んだから、まあ狙いは成功したとは言えそうだ。

アラスカは米国の北西に位置し、米国50州の中で最大の面積、日本の4倍もある。それにもかかわらず人口はたったの73万人だ(2012年)。日本で言えば島根県(71.2万人)並である。

主な産業は石油、ガス、石炭、鉱業、水産、観光、林業など、自然の恵みにあふれている。アラスカは1867年にロシアから米国が買収したものだが、米国はいい買い物をした。

ロシア人は18世紀末から狩猟や交易のため北米大陸太平洋岸一帯に進出しており、一部はカリフォルニア州にまで達していた。

その後1853年から1856年にかけてのクリミア戦争により、大打撃を被って経済的に疲弊したロシアはアラスカを売却することにしたが、クリミア戦争でも敵対したイギリスに売却することを避け、米国を取引相手に選んだ。

ロシアは1859年に米国に売却意向を打診しており、南北戦争の影響もありその時点での進展はなかったが、1867年3月、ロシア皇帝アレクサンドル2世は在米外交官に命じ、米国務長官ウィリアム・スワードと交渉を行わせた。

その結果3月30日午前4時に米国がアラスカをロシアから購入する条約が調印された。購入価格は720万USドル。面積単価は約2セント/エーカー(1エーカー=約4047平方メートル=1226坪)だった。

1871年(明治3)に円とUSドルの為替が開始した時の相場は1ドル1円だから720万円である。明治11年の明治政府の国家予算(一般歳出)が6094万円であることを考えると、アラスカの単価は破格の安さとは言え米国にとっても結構な買い物だったろう。

この条約は4月9日に米国上院で批准されたものの、当初スワードは「巨大な保冷庫を購入した」などと米国民に非難された。しかし、1896年にはアラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明した他、軍事上においても要衝であることから、スワードのアラスカ購入に関する評価は高いものに変わったという。

ソ連(現ロシア)が日本から強奪した北方領土も、いつか情勢は変われば「金で解決」という機会が来るかもしれない。待つしかないだろう。

閑話休題。

アラスカの最大の観光資源はデナリ国立公園・自然保護区で、ここにそびえるのが北米の最高峰、6194mのマッキンリー山である。マッキンリーと言えば冒険家の植村直己を思い出さずにはいられない。たった一度取材しただけの縁だったが、寡黙な人だった。

<昭和59年(1984)2月12日、植村直己は43歳の誕生日に厳冬期のマッキンリーに単独登頂成功。しかし、翌日の無線交信を最後に消息を絶ちました>(植村直己冒険館)

それから29年もたった。

<2月12日。デナリ・パスを過ぎ、頂上までの中間の稜線上の植村を、前日の2人が機上で確認。「あと2時間ほどで登頂できる」と交信してきた。飛行機の2人はいったんBC(ベースキャンプ)に引き返し、16時に登頂確認のため飛ぶが、天候が雪に変わり、植村を発見できず。

2月13日。パイロットとテレビカメラマンが頂上付近に飛び、午前11時に植村と交信。頂上付近はガスで、植村の姿は確認できなかった。また交信の記録は残っているが、雑音が多く聞き取れない部分が多い。

植村は「えー、きのう、7時10分前にサウス・ピークの頂上に立ちました」といっているのは聞きとれるが、現在位置不明。「2万、2万、2万フィート」という言葉を残して、聞きとれなくなった>(湯川豊「植村直己 夢の軌跡」)

43歳の遭難死。太く短い人生だった。アラスカの氷雪は今も彼を包んでいるのだろう。

      <「頂門の一針」から転載>
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