2007年02月12日

◆秋田と岩手の違い

                    渡部亮次郎

太平洋戦争の末期、昭和20年の夏、岩手県の釜石港がアメリカ海軍の艦砲射撃でめちゃめちゃにやられた。その時、私は国民(小)学校4年生。地響きが背中合わせの秋田県側に伝わって来た。

岩手とか釜石とか盛岡とかを生まれて初めて名前を聞いて、意識したことの初めであった。それにしても太平洋はすぐ、そこ。日本は狭いと初めて思ったのもその時である。

偶然にも、20代の中ごろから5年間、盛岡に勤務した。冬が来て萎れた。布団の襟が凍っているのだ。氷点下10度なんていうのは良い方だった。自分の息で布団が凍るのだ。

その代り、夜が素晴らしかった。浩々と月が出て、銭湯帰りのタオルが凍ってすぐ棒になった。間もなく正月。朝から日が昇る。驚きだった。何しろ小学校1年の時「はつひので」と教わって「元日に出るお日様のこと」というから「先生というのは人に嘘を教えてはいけない」と文句をつけて、親父が校長に呼ばれたそうだ。


秋田での元日は太陽の顔とほぼ無縁だから、初日の出はまず有り得ない。秋田というところは、岩手とたった背中合わせなのに、気候はまるっきり違う。悪い。もし秋田に住めと言われたら、私は盛岡で途中下車すること、確実である。

今も秋田で暮らしている同級生が来て「息子や娘がなぜ東京から帰って来たがらないのか、やっと判った。冬のこの青空だ」。秋田での子供のころは、今よりもっと冬が厳しかったような気がする。海に近い私の家でも、2階からしか出入りできない冬があった。家の外側にヨシ(葦)で防寒の壁を築かないと北西の季節風を避けられなかった。

ひきかえて盛岡は盆地で、冬に強い風の吹いた記憶がないから、そんな風景はない。周辺の岩手郡一帯は火山灰土で作物の育ちは良くない。戦後はコメの値段がいいというので、土の底に流行のビニールを敷いて防水し水田にする光景があちこちで見られた。あの田圃はどうなっただろうか。

明治維新の時に、岩手と秋田は戦争をしている。戊辰戦争(ぼしんせんそう)。新政府軍と旧幕府側との戦い。鳥羽・伏見の戦い、彰義隊の戦い(上野戦争)、長岡藩・会津藩との戦争などに続く内乱で、岩手(南部藩)は奥羽列藩となって、ただひとつ新政府側に付いた秋田(佐竹藩)に襲い掛かった。

秋田は、もはやこれまでという時、長崎からの応援隊で救われた。秋田県鹿角郡は元は南部領だったと、死んだ爺さんに聞かされたものだ。そんな秋田も維新後は薩長土肥にさっぱり優遇されなかった。長州に阻まれて、陸軍では絶対、大将にはなれなかった。

気質も違う。秋田は米が十分穫れて餓死する心配が無い分、妬みが激しいように思う。引き換え岩手人は妬みが無く、よそ者を大事にする。政治家は選挙の心配をあまりすることなく国政に奔走できる。だから総理大臣が何人も出たが、秋田から出た総理大臣は0である。

東北と一言でくくっても、そんな歴史がある。道州制の邪魔石かもしれない。07.02.12

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