平井 修一
世間への関心が日々薄れていく気がする。新聞を見ても「どうでもいいや」という記事ばかりで3月6日の産経新聞でしっかり読んだのは「曽野綾子の透明な歳月の光」というコラムだけだった。曽野は大略こう書いている。
<久しぶりにカンボジアとベトナムに行って・・・私の個人的なお土産は今回も得体の知れない虫に食われて帰ってきたことだ。これは単なる蚊ではない。ノミ、家ダニ、南京虫のどれかにやられた可能性が強いのである。
これからしばらく、私はこの手の虫についての本を読んで知識を増やすつもりだ。かくして私の老後は少しの退屈もないのである>
齢を重ねてもいろいろなものに興味を持つ、関心を持つ(持てる)というのはすごいことである。曽野は1931年(昭和6年)生まれだから82歳である。82歳でも海外をとびはねており、多くのことに興味津々である。
虫にさえ関心を寄せている。「電車に乗るのも億劫だ」というナマケモノみたいな小生とは大違いだ。
この違いはなんなのか。曽野は「行動すれば世の中が良くなる」と思っている。社会貢献に意味を見出している。小生は「人も社会も幸不幸は運次第で、諦めるしかない、ジタバタしても変わらない」と思っている。
価値観が全く違うのだ。人は生きる意味があり、人生は明るくなると思うか、それとも「生きる意味なんてない、人生が好転するとすれば運が良かっただけ」と思うか。
楽天と悲観、希望と絶望、慈愛と無視、信心と不信、憐憫と嫌悪、自己犠牲と自己保身・・・曽野が人間のよき面なら小生は悪しき面である。
実際の人間はこうしたものがない混ざっているのだろう。ある場面では良き人も、場面が変われば不徳の人、非情の人、エゴイストになったりする。昨日は絶望していた人が今日は希望を見出したりしている。嘘つきが正直に、悪人が善人になることもあるだろう。
自分の中にいろいろな自分がいる。一貫性がない。一時的な感情に流されることも少なくない。その一方で普段は軟弱な人が大事な場面で踏ん張ったりするし、真面目な人が想像もしなかったような愚かなことをしたりする。人間は不可解な生き物だ。
60を過ぎても小生は自分が何者か、これからどう変わるのかも分からないし、人間とは何か、人生とは何かも分からない。ある日突然、ゴールとなって終わるのだろうなとは思うが、ゴールがどこにあるのかも知らないままに日々歩いているだけである。
人生自体が不可解で、もしかしたら人生とは何かが分かったら、皆歩くのを止めてしまうのではないかと懐疑主義の小生は思うのだ。気力、体力は衰えるばかりで、今日より明日の方がよくなるなんて、とてもじゃないが信じられない。
介護や痴呆が当たり前の80を過ぎても曽野のように元気に歩き続ける人は運が良かっただけではないのか。
<「頂門の一針」から転載>