2013年04月14日

◆下駄屋の内儀歌手「音丸」

渡部 亮次郎


私は福島県の独学作曲家古関裕而(こせき ゆうじ)こそは天才だと思っている。独学で作曲家となり、遂に東京オリンピックの入場行進曲を作るまでの実績を残し、80歳で逝去した。

2009年はその古関の生誕100年で、郷里では記念に様々な催しが行われたが、はじめに古関を流行歌の作曲家として世間に認めさせたのが、下駄屋の内儀から歌手になった「音丸」である。古関の作曲した「船頭可愛いや」を大ヒットさせた。

1935(昭和10)年、裕而26歳の時。世界の舞台でも活躍した三浦環(みうら たまき)がレコードに吹込んだ。古関は大満足だったが、コロムビアのディレクターのアイディアで、改めて音丸を起用。結果は音丸ものが大ヒットとなり、古関をも売り出すこととなった。

とはいうものの昭和11年生まれの筆者は実物にお目にかかったことがない。テレビ時代になったときは音丸は既に第一線を退いていたらしく映像も見ていない。ただし手許にあるたった1枚のCDはステレオである。

音丸の持ち歌の中でも、「船頭可愛や」「下田夜曲」「博多夜船」の3曲は特に有名で、「船もの」と呼ばれており、音丸の死後も広く親しまれている。(NHKラジオ深夜便 07年9月3日)

また「満洲想えば」「満洲吹雪」「君は満洲」などの満洲ものも彼女のレパートリーとして知られている。

他にも、「米山三里」「潮来追分」などの民謡調の歌も多く、これらの歌では音丸の巧みな節回しや美しい高音が最大限に生かされており、また彼女自身が民謡調の歌を非常に好んでいたために、音丸の本領発揮といった感がある。

明治39(1906)年12月8日東京市麻布箪笥町にあった老舗の履物屋の一人娘として生まれた。

常磐津の名取りだった祖母は彼女が6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わせた。13歳の時に美声を買われて橘流筑前琵琶を修行、旭翁派の名手としても知られるようになる。

17歳のときには春日派の小唄を始めている。しかし、25歳のときに大変可愛がっていた弟が亡くなり重いノイローゼになる。

その頃近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていて、いつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。

そこでその民謡の会に出席して披露した彼女の持つ勘の良さと美声は菊池淡水の絶賛するところとなり、リーガルレコードに推薦され本名で「草津湯もみ唄」を吹き込んだ。

そのレコードを聴いた古賀政男は当時重役をしていたテイチクに誘い「泪の京人形」を吹き込ませた。

ちょうどその頃、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などの芸者歌手が一世を風靡していたが、芸者歌手は地方巡業に際して時間拘束として莫大な花代がかかった。

そこで、苦肉の策として芸者と同じく小唄や端唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性を探していたところ、下駄屋のお内儀である彼女に白羽の矢が立った。

その後、昭和9(1934)年9月から正式に契約を結んだコロムビアから本名で「おけさくづし」「主は国境」でデビューした。

芸名を音丸としたのは同年に吹き込んだ「君は満洲」からである。音丸の芸名の由来は「音は丸いレコードから」という洒落にちなんで名付けられた。

コロムビアでは当初家庭の主婦からレコード界入りしたことを隠していたが、音丸本人がファンに「下駄屋の姉御!」と声をかけられても「よくご存知」と返すなど腹の据わったところを見せたという。

翌昭和10(1935)年には「船頭可愛や」が大ヒットした。この曲は沖縄民謡の普久原恒勇が「日本最高の歌謡曲」と絶賛している。

続いて昭和11(1936)年には「下田夜曲」、「博多夜船」が大ヒットし小唄勝太郎や市丸などの芸者歌手を向こうにまわしての人気を獲得する。

また「満洲想えば」は同年に敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満州に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの。

13年の「皇国の母」は、戦地へ出征する兵士を乗せた船が出る港でスピーカーで流していたところ、泣く者が余りに多かったので中止されたという逸話がある。

次第に出演依頼やレコードの吹き込み、ラジオ・映画の出演に多忙となり生活も派手となり家業の下駄屋は人手に委ね下駄屋の養子となっていた夫とも協議離婚し音丸は歌一筋の道を歩み始める。

その後弁士の井口静波と再婚し二人は二枚看板で全国を慰問、興業に歩いた。

戦後も全国巡業が続き昭和22(1947)年には高知で当時前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長もつとめていた。

昭和23(1948)年にはキングレコードに移籍、同年に人吉を訪れた際に「五木の子守唄」を見つけ出し初めて同曲をレコーディングする。後に人吉市長から感謝状を受けている。しかしヒットは出せずその後コロムビアに復籍した。

コロムビアに戻った音丸はその後懐メロブームに乗って東京12チャンネルのなつかしの歌声に番組出演をしたり昭和47(1972)年にはステレオ録音で往年のヒット曲を吹き込みオールドファンを喜ばせたが、この頃から急に視力が低下、活動に支障をきたし始める。

昭和51(1976)年1月18日午後12時30分に世田谷区世田谷のマンションで急性心不全により死去。享年70。

墓は東京都品川区にある天妙国寺にあり、墓の横には舟の帆をかたどった碑がある。 この碑は音丸の生前に作られ、「船頭可愛や」の一番の歌詞が音丸の直筆によって彫られている。本名永井満津子。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び「誰か昭和
を想わざる」
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer02.htm


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