2013年04月20日

◆奈良「木津川だより」・恭仁宮跡

白井繁夫


恭仁宮跡(くにのみやあと)は、京都府の最南端の地、木津川市加茂町瓶原(みかのはら)、
木津川の右岸(恭仁小学校隣接近辺:地図Z:2番)に所在しています。
地図Z http://chizuz.com/map/map144914.html

今から約1270年前の天平12年(740)に、聖武天皇が平城京から恭仁京に遷都された古代の都ですが、京都府内に三つある古代の都城(恭仁京、長岡京、平安京)の中で最も古いが、一番知られていない(短命の都:天平16年までの4年間のためか?)都城だと思います。

そこで、今回は聖武天皇の東国行幸前の「平城京の状況説明と恭仁京」について、実際に発掘調査した京都府教育委員会の発掘調査資料や木津川市教育委員会の資料を参照しながら散策します。次回には昨年出版された「古代文化 T VOL.64」の『恭仁京の復元』なども参考に、聖武天皇の「恭仁京遷都」を考えてみようと思います。

北九州から平城京へ流行してきた豌豆瘡(わんずかさ:裳瘡もがさ)は、多くの人々を犠牲にしました。貴族社会も例外なく、天平9年聖武天皇を支えてきた藤原不比等の子、藤原四卿をも襲い、突然の死に至らしめたのです。

藤原氏以外でも多治比縣守(中納言)も6月に没し、当時台閣を構成した過半数の人々が亡くなり、藤原武智麻呂(むちまろ:左大臣)没後2ヶ月を経た9月末に、橘諸兄(もろえ)を首班とした新政権が樹立されました。

一方、天平10年12月、九州の太宰少弐(左遷された?)藤原広嗣(ひろつぐ)が、天平12年9月に管下の兵士を動員して「反乱」を起こしました。

聖武天皇は挙兵の2ヶ月後、10月29日に東国行幸に出発するのです。その時に聖武天皇は、大将軍大野朝臣東人に『朕思ふ所あるによりて、今月の末に暫く関東に往かむとする。云々』と勅しました。

行幸には、元正太上天皇、光明皇后、皇親、諸兄以下貴族を同伴して出発し、その後平城京には帰らず、12月15日に「恭仁宮」に入って、恭仁京の造営に着手しました。

聖武天皇の遷都については、疫病(天然痘)の流行が原因だとか、藤原氏と橘諸兄との確執(政情不安)等の混乱を避けるためではなく、前々から、新しい都「恭仁京」に遷都して新たな律令国家の建設を目指していたことと、諸兄は彼の地盤(相楽別業:さがらかべつごう)に近いと云う両者の思惑が一致した、と云う説もあります。

「恭仁宮跡」の発掘調査で特筆することは、天平13年に「平城宮」から本格的な宮殿「大極殿」とその周囲を取囲む「回廊」も移築した、その建物が天平18年には山背国分寺の「金堂」に施入されたことが確定されたことです。

長い前置きは止めて、1300年前の「恭仁宮跡」を見ましょう。

「恭仁京」と云えば都市全域を指しますが、今回は「恭仁宮」(天皇の住まいと政庁施設がある区域)について、実際に発掘調査(京都府教育委員会)した概要を、下図(恭仁宮の構造:木津川市教育委員会)参照しながら箇条書します。
恭仁京の構造縦1.jpg
★「恭仁宮」の構造は宮の中心地区にある「大極殿院地区」、その背後に東西二つの「内裏地区」、南部に「朝堂院」、「朝集殿院」で構成され、その周囲は「大垣おおがき」という塀で囲まれ、南東部に「東面南門」(宮城門)がありました。

★「恭仁宮」は東西に約560m、南北に約750mに設計され、その周囲は高い土塀(築地塀・ついじべい)で囲み面積は約42ha(平城宮の約1/3)でした。

★「大極殿」は天皇が儀式や政治を執り行う重要な建物です。宮の中心より少し北側に造られ、高さ1m強の土壇の上に、東西が45m、南北も20mの大きな建物で、朱塗りの太い柱を礎石の上に建てた礎石建物でした。(北西と南西の隅の礎石は1300年前の当時のまま移動していないことが調査で判明されました)。

★「大極殿院地区」は広い前庭をもち大極殿院を取り囲む回廊は築地を中央に築き、その両側を通路にした立派な「複廊」形式で、『続日本紀』に、平城京から恭仁京へ遷都のとき、平城京の「大極殿」とともに周囲の「歩廊」も移築した。とある記述が裏付けられました。

★「内裏」は東西二つあり、どちらが天皇の住む所かは不明です。「内裏西地区」は東西約98m、南北約128mあり、周りは全て板塀(掘立柱塀)です、「内裏東地区」は東西約109m、南北約139mで西内裏より大きいが、北側のみ板塀で残りの南、東、西側は土塀(築地塀)でした。

★「朝堂院」は「大極殿院」の南にあり、官吏が早朝より午後まで勤務した官衙(かんが:官庁)であり、広場では正月の朝賀や外国使節の歓迎儀式を執り行いました。

★「朝集殿院」は「朝堂院」の南側にあり、朝堂院での儀式開始までの役人の待機場所と考えられています。朝集殿院と朝堂院の周囲を区画する板塀(掘立柱塀)の一部が確認されました。

朝集殿院は東西約134m、南北約125mあり、南側に「朝集殿院南門」が発見されました。朝堂院は東西幅が朝集殿院よりやや狭くなっていたことが判り、このようなことから「恭仁宮」が「平城宮」を模して造られた可能性があることが判って来ました。

上記が「実際に発掘調査(京都府教育委員会)した概要」ですが、平成24年度の発掘調査の時、朝堂院で初めて「朝堂」と考えられる掘立柱建物が発見されています。(朝堂院は古代宮城の中枢となる殿堂で政務や儀式、饗宴などが行われた建物群です)。

大極殿旧跡(恭仁小学校の北側)を訪ね、東側の山城国分寺塔跡、例幣使料碑(れいへいしりょうひ)など巡り、瓶原(みかのはら)ののどかな景色の遠望できる所で休んだ時、大伴家持の万葉歌(6−1037)「今造る久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし」とか、田辺福麻呂の(6−1050)「久邇の新しい都を賛美した歌」二首と短歌を思い浮かびました。

また別に、(6−1059)に詠われた「風光明媚な久邇の都の泉川や三諸つく鹿背山は短命な都から現在まで在りし日の自然の姿を留めていてくれたかな」の歌も脳裏に奔り、少しセンチな気持にもなりました。

次回はもうすこし聖武天皇の描いた「恭仁京」の都に近づきたいと思っています。

参考資料  加茂町史 第一巻 古代.中世編   加茂町
      恭仁宮  よみがえる古代の都    木津川市教育委員会
      平成24年度 恭仁宮跡発掘調査 現地説明会資料
                        京都府教育委員会

恭仁京の構造縦1.jpg


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