2013年04月19日

◆国民栄誉賞と文化勲章の「違い」

岩見 隆夫


勲章に私たちの世代が関心が薄いのは、時代のせいである。もともと国家、社会に対する功労者を表彰して、国家から与えられる記章のことだから、関心があって当然のはずだが、そうでもない。

戦前、軍国少年のころは、金鵄勲章がすべてだった。武功抜群の陸海軍の軍人・軍属に与えられるのだが、それだけが燦然と輝いていて、ほかは目に入らない。当時から文化勲章もあったはずなのに、知らなかった。

とにかく、不幸なことに、勲章イコール武勲のイメージが刷り込まれていたから、敗戦とともに金鵄勲章も軍隊も消えてしまうと、勲章という言葉自体、使いたくない、という意識が先に立ったのだと思う。関心が薄いのは仕方のないことだった。

しかし、〈勲〉がつかない賞一般は、戦後あらゆる分野に広がって、値打ちはピンキリだが、悪いことではない。今回、長嶋茂雄さんと松井秀喜さんのダブル受賞で大ニュースになった国民栄誉賞も勲章の一つである。あまりセンスのいいネーミングとは思えないが、それはいいとして。

表彰規定によると、対象は〈広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えたもの〉とされ、首相が適当と認めれば授与される。首相の専権事項であることから、しばしば政治的な利用疑惑が取りざたされてきた。本誌も先週号で、

〈唐突! 国民栄誉賞W受賞は「春の値上げ隠し」だ〉

と書いている。安倍晋三首相にそんな意図があったかどうか、証明のしようがないが、確かに唐突感とセット授与への違和感が残った。

そこで、歴代首相と受賞者の一覧表を作ってみた。

▽福田赳夫=王貞治(プロ野球選手)、古賀政男(作曲家)

▽中曽根康弘=長谷川一夫(俳優)、植村直己(冒険家)、山下泰裕
(柔道選手)、衣笠祥雄(プロ野球選手)

▽宇野宗佑=美空ひばり(歌手)

▽海部俊樹=千代の富士(大相撲横綱)

▽宮沢喜一=藤山一郎(歌手)、長谷川町子(漫画家)、服部良一(作曲家)

▽橋本龍太郎=渥美清(俳優)、吉田正(作曲家)

▽小渕恵三=黒澤明(映画監督)

▽森喜朗=高橋尚子(マラソン選手)

▽麻生太郎=遠藤実(作曲家)、森光子(女優)

▽鳩山由紀夫=森繁久彌(俳優)

▽菅直人=なでしこジャパン(サッカー女子日本代表チーム)

▽野田佳彦=吉田沙保里(レスリング選手)

▽安倍晋三=大鵬(大相撲横綱)、長嶋茂雄(プロ野球選手)、松井秀
喜(プロ野球選手)

この制度、1977年八月、福田首相のもとで作られ、以来35年半の間、13人の首相によって22人と一団体に授与された。うち芸能関係11人、スポーツ関係(相撲、冒険を含む)10人と1団体で、変わり種は漫画家の長谷川さんだ。

また、古賀さんら14人が既に故人で、大半が死去を機に受賞している。授与歴のない首相も大平正芳、竹下登、小泉純一郎ら9人、在任期間を合計すると16年になるので、この間該当者がいなかったとは思えない。

たとえば、俳優は長谷川、渥美、森、森繁の4人、歌手は美空、藤山の2人だけだが、ほかにも栄誉賞にふさわしい人は何人かいたはずだ。となると、基準、選考はかなり恣意的で、時の首相の人気取り、あるいは批判回避に利用されたのではないか、という疑惑がつきまとう。

結果的に賞の権威を落とすことになる。首相の諮問機関を設けるとか、選考を厳しくする工夫をしたほうがいい。受賞者にとっても、そのほうがありがたい。

日本の最高の勲章とされている文化勲章は、1937年に設けられたから76年の歴史を刻んでいるが、審査は厳格で文部科学省に選考委員会がある。

それでも自薦他薦があり、しばしば政治家がかかわってきた。

以下の秘話は7年前、私が『毎日新聞』の政治コラムに書いたので、すでに秘話でないのかもしれないが、文化勲章の権威のために、改めて紹介しておきたい。

佐藤栄作首相の時、佐藤さんは昵懇の鹿島守之助さん(1896〜1975年)に文化勲章が贈られるよう仲介の労をとろうとした。

鹿島さんは外交官のあと鹿島建設社長を長年つとめ、53年に参院議員に当選、第一次岸内閣の北海道開発庁長官に就任している。66年には鹿島平和研究所を設立、『日本外交史』34巻などを出版し、文化活動にも精力的だった。

すでに文化功労者に選ばれ、学士院賞、勲一1瑞宝章を受けていたが、加えて、ぜひとも文化勲章を、ということだったのだろう。

しかし、審査は厳しく、首相の仲介はうまくいかない。やむなく後継の田中角栄首相に、

「引き続きやってくれ。頼む」

と申し送った。だが、田中首相が奥野誠亮文相らをせっついてもラチがあかない。壁は宮内庁にあることがわかった。

某日、田中さんの命を受け、側近の後藤田正晴官房副長官が宇佐美毅宮内庁長官を訪ねる。五三年以来の大物長官だ。鹿島授与を打診したが、

「それは、だめだよ」
「なぜです」
「ある人物の授与の決裁をお願いした時、陛下はこう言われた。『文化勲章というのは、家が貧しくて、研究費も足りない。にもかかわらず生涯を文化や科学技術発展のために尽くした。そういう者を表彰するのが本来のやり方ではないのか』と。後藤田君、そういうことなんだ」

というやりとりになった。帰って報告すると、田中さんは、
「そうか、これはやめた」
とあっさりしていた。昭和天皇がひとつの枠をはめていたのである。

この話は、後藤田さんからオフレコの約束で聞いたが、すでに他界されて8年、文化勲章の名誉のためにお許しいただけるだろう。

(いわみ・たかお=毎日新聞客員編集委員)

        <「頂門の一針」から転載>
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