2007年03月11日

◆周恩来は毛沢東に殺された

渡部亮次郎

2007年3月9日に届いた月刊誌『文藝春秋』4月特別号の目玉は昭和天皇の昭和14年から20年までの言動を改めて明らかにした当時の侍従小倉倉次氏の日記だが、私にとっては「周恩来は毛沢東に殺された」という10ページに及ぶ記事がショックだった。

私は1972年9月、田中角栄首相と同じ特別機で北京を訪問し、日中国交正常化をつぶさに取材した記者(NHK)として、当時、人民大会堂で中国の首相だった周恩来氏に面会し、一緒に記念写真に納まった。

あの時、既に周恩総理は腎臓癌の痛みに堪えていたとは。周恩来氏のすぐ後ろの段に立った私のすぐ下に彼の毛髪が見えた。周恩来は酷いちじれっ毛と知った。着ていたのはグレイの人民服だったが、生地は上等に見えた。

中国軍は兵も将校も同じ服装、と喧伝されていたが、なるほど色は同じでも生地によって明らかな差をつけるという方法があるのか。中国の「平等」には本質的嘘が隠されていることを、このことから推測した。

「1972(昭和42)年5月の検査で、周恩来が膀胱癌にかかっていることが分りました。ところが報告を受けた毛沢東は4つの指示を出しました。病状を秘密にして本人にも夫人のケ頴超にも知らせるな、検査をするな、手術をするな、かわりに栄養をつけさせろ」

「癌が発見された時点は非常に早期の段階。手術すれば90%以上の確率で治るはずだったのです。9ヶ月後、小用を足したら血尿で便器が真っ赤に染まった。毛もようやく膀胱の本格的な検査を許しましたが、手術は認めなかった」

それでも周恩来は先立ってその年の9月に北京にやって来た田中首相との間で日中国交正常化を果たした。その少し前にはニクソン米大統領の訪中も実現させた。

「周恩来はこの時期、痛みに耐えながら激務を続けていました。やがて腫瘍からの出血で、尿道に血の塊が詰まって排尿が難しくなりました。

トイレに行くたびに身体を傾け、腰を揺すり、飛び跳ねながら血の塊を動かそうとしました。なんとも凄まじい姿です。そうやって長い時間をかけて用を足しながら、あれだけの仕事をこなしたのです」

ショッキングな事実を明らかにしたのは、嘗て中国共産党中央文献研究室で周恩来生涯研究室小組の組長つまり委員長を務めていた高文謙さん。日本には無い制度だが、周恩来研究小組には最盛期で20人ものスタッフがいた。


其処では周恩来の伝記を書いたり、中国共産党の機関紙『人民日報』に周恩来に関する論文を発表していたが、1989年6月4日の天安門事件に参加したため処分を受け、4年後の93年にアメリカに亡命した。

アメリカではハーバード大学で研究を続けながら、『周恩来秘録 党機密文書は語る』を執筆、先ごろ日本語訳(上下)が文藝春秋社から刊行された。今回月刊文藝春秋4月号に載った対談は上澄みを掬った宣伝記事である。

更に読み進むと、周恩来の治療に関する毛の4項指示と言うのは、周恩来に仕えた警備の人や看護師らを集めた座談会で飛び出したもの。80年代のことだったがずっと公開されなかった。

高さんは、亡命前に、党の発行する周恩来年譜を作成した際にこの1節を書き込んだが、上司に削除された。「毛沢東のイメージを決定的に損うものですからね」と高さん。

『周恩来秘録』は中国版は『晩年周恩来』として03年にNYで出版されたが、中国国内では出版直後に発売禁止となった。中国当局は問題の4項については今は否定はしていないが、毛沢東は手術が怖かった、夫人に知らせないようにしたのは人情からだった、と主張している。

しかし高氏は「検査すら認めないで、なにが手術が怖いだ、家族にも病状を知らせなかったのは人情だったとは、常識で考えてありえない」と反発する。

医療チームのリーダーだった呉階平(泌尿器科専門医)が03年に香港テレビの取材を受け、妨害を受けたことを認めた。この時、呉の手は、ぶるぶる震えていたそうだ、とも。

中国ではお祝いの時に爆竹を鳴らすのだそうだが、毛沢東は周恩来が死去(1976年1月)した直後、旧暦の大晦日に爆竹を盛大に鳴らした。仮に祝いでなかったにしろ、人民から見れば随分無神経な行いと思うだろう。

「周恩来は40年もの間、毛に忠誠を尽くした。毛の目の治療の際には自分の目に目薬をさして、副作用のないことを試したこともあった。あまりにも酷い仕打ちに住民は怒った。

各地で住民が自発的に周恩来追悼の活動を始めた。これがいわゆる第1次天安門事件(1976年)となったのです」。

それにしても聡明で優雅で謙虚な周恩来が、毛沢東にいびられながら何故、忠臣のまま死んだか。これについて高さんは「周恩来は40年代前半に毛沢東に付き従って生きていくことを決心した。毛の指導者としての力量を認め、自分は及ばないと自覚していた」という。

其処には周恩来が臆病であり、優柔不断で、保身のためなら仲間や部下を罪に陥れる狡猾な面もあった事は否定できない、と。たとえば1966年に文化大革命を発動して暴走した時、首相としては諌めるべきなのに、それをせず、国家を混乱から救う事はできなかった。

それにしても周恩来に墓は無い。ケ小平も無い。将来、人民に否定され墓を暴かれることを避けたのだと言われている。毛沢東は天安門広場で水晶の箱の中でフォルマリンか何かに浮いている。2007.03.10
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