2013年04月23日

◆「栄光から挫折へ」失意の人々

平井 修一


人生は一寸先は闇、と言う。頂点を極めるのには大変な努力、才覚、賭け、それに天運が必要で、少しずつ這い上がっていくしかないのだが、頂点に立って「今日は昨日の続き、明日も今日の続きでうまくいくだろう」などと思っていると、突然天候が急変して奈落の底へ落ちることがある。

「人間万事塞翁が馬」とか「禍福はあざなえる縄のごとし」などという言葉もあり、良いときも悪い時もあるのが人生とは言うものの、「九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に虧(か)く 」という言葉もある。長い間の努力も最後の少しの過失からだめになってしまうことのたとえだ。

政治家の田中角栄(1918:大正7年5月4日 - 1993:平成5年12月16日)は若くして総理になり頂点を極めたが、晩年は幸福とはとても言えなかったろう。

1972年(昭和47)5月、佐藤派から田中派が分離独立。6月『日本列島改造論』を発表。7月5日、佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。7月6日、第1次田中内閣が成立。初の大正生まれの首相であり、54歳という若さだった。内閣支持率調査で70%前後の支持を集めた。

1974年(昭和49)10月、月刊誌『文藝春秋』が「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」を掲載。立花隆らが金脈問題を追及する。12月9日、内閣総辞職。首相在職通算日数は886日。三木内閣発足。

1976年(昭和51)2月、ロッキード事件発生。アメリカの上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。

7月27日に、同社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪などの容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。首相経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件の芦田均以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。8月、保釈。

それ以降は福田赳夫内閣、大平正芳内閣、鈴木善幸内閣、中曽根康弘内閣が続く。田中は「闇将軍」として君臨し、政治力を発揮した。

1984年(昭和59)12月、田中派内の中堅・若手により、竹下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる。

1985年(昭和60)2月7日、創政会が発足。それが遠因となり2月27日、脳梗塞で倒れ入院。

言語障害や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。田中は66歳で事実上引退した。

1993年(平成5)12月16日、75歳で死去。(以上、ウィキによる)

「政治は数であり、数は力、力は金だ」と豪語した“コンピュータ付きブルドーザー”も脳梗塞という伏兵に襲われ、晩年は寝たきりではなかったか。口も体も思うようにならず、惨めで辛い思いを8年間も続けた。刑事被告人という不名誉も背負ったままだった。

「晩節を汚す」という。高い評価を受けてきた人が晩年になって失敗し、それまでの業績や評価が台無しになってしまうことだ。どんなに功成り名を遂げた人であっても、不遇の晩年を過ごす人は少なくない。

小生がもの心ついたころからの記憶によれば、晩節を汚した、あるいは不本意に過ごした経済人では以下を思い出す。

■横井英樹:1913年(大正2)7月1日 - 1998年(平成10)11月30日。老舗百貨店、白木屋の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出などで脚光を浴びた。1982年2月8日にホテルニュージャパン火災が発生、全焼、横井は1987年、東京地裁で業務上過失致死傷罪で禁錮3年の有罪判決を受け、1993年に最高裁で確定した。

1994年から東京・八王子の医療刑務所で服役。1996年に仮釈放となり、1997年には刑期を終え、翌年に死去した。享年85。

■坪内寿夫:1914年(大正3)9月4日 - 1999年(平成11)12月28日。倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から、一時はマスコミによって「再建王」、また船舶・造船・ドック会社を多数抱えたことから「船舶王」、四国を中心としたグループ形態から「四国の大将」とも称された。

坪内が率いる来島どっくグループは経営は破綻寸前まで追い詰められた佐世保重工業の経営再建にもあたったが、1986年(昭和61)からの円高不況で来島どっくグループ本体も経営不振に陥り、佐世保重工業は同グループを離脱。坪内は1999年(平成11)、松山市内の病院で死去した。享年85。

■中内功:1922年(大正11)8月2日 - 2005年(平成17)9月19日)。ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務める。戦後の日本におけるスーパーマーケット(GMS)の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させダイエーを中心とした商業施設の普及拡大、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した。

1990年代後半になってバブル景気の崩壊により地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾きはじめた。2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任。2005年8月26日、病院で定期健診中に脳梗塞で倒れ、療養中の9月19日に転院先の病院において死去した。倒れてから亡くなるまで意識が戻ることはなかったという。享年83。

■和田一夫:1929年(昭和4)3月2日 - 。元・ヤオハン代表。静岡県熱海の八百屋「八百半」を、30年間で世界的な流通・小売業「国際流通グループ・ヤオハン」にまで発展させたものの、最終的には経営破綻させた。

最盛期の売上はグループ全体で年間5000億円程度であった。1996年に経営危機が表面化、1997年、グループ傘下の主要会社ヤオハン・ジャパンは1613億円の負債を抱えて倒産。

会社更生法の適用を受けた後イオングループの100%子会社「マックスバリュ東海」となり現在に至っている。ヤオハン・ジャパンを除くヤオハングループ(日本国外の事業)は、1997年以降にすべて解体、清算・譲渡された。

■堤義明:1934年(昭和9)5月29日 - 。西武鉄道グループの元オーナー。父は西武グループの基礎を一代で築き上げた堤康次郎であり、兄は元西武百貨店会長の堤清二。

一時は総資産額で世界一となったこともあるが、西武グループの度重なる不祥事の責任を取って一線を退き、2005年3月3日、西武鉄道株式に関する証券取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕され、有罪判決を受けた。

これにより、西武鉄道グループはメインバンクであったみずほグループ出身の後藤高志へ経営権が移り、コクド・西武鉄道・プリンスホテル間をめぐる堤家との複雑な資本関係は、西武ホールディングス発足と第三者割当増資によるサーベラスらの外部資本注入により整理された。

■江副浩正:1936年(昭和11)6月12日 - 2013年(平成25)2月8日。リクルートの創業者。1988年(昭和63)、いわゆる「リクルート事件」が発覚、国会での証人喚問に召喚された。

同年、リクルート会長を退任。1989年(平成元年)2月に贈賄容疑で逮捕され、贈賄罪で起訴。2003年(平成15)に東京地裁にて懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受け、被告人・検察とも控訴せず同判決は確定。

リクルート事件に関しては長らく心の傷を引きずり、その多くを語ることはなかったが、2009年(平成21)の手記『リクルート事件・江副浩正の真実』で初めて当時の心情を縷述した。2013年(平成25)2月8日に東京都内で死去。享年76。

・・・
これらの人々は絶頂を極め、その反動のように晩年は失意の日々だったろう。「カニは甲羅に似せて穴を掘る」から、小生のような凡人には絶頂もなければ失意もなく、波乱万丈とは程遠い。ちょっと寂しい気もするが、多分それで良かったのだろう。
         <「頂門の一針」から転載」
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック