2013年05月25日

◆木津川だより  恭仁京の復元

白井繁夫


前回は「恭仁宮跡」の大極殿や朝堂院などの発掘調査資料を参照しながら、木津川市に所在した「奈良時代の恭仁宮」(くにのみや:地図Z:2番)について触れました。
 
今回は範囲を広げ、聖武天皇が描いた理想の都城「恭仁京」を造営(天平12年12月)したのに、理想の都城「恭仁京」が何故、幻の如く短命に終わったのか。その謎の「背景」について考えてみようと思います。

地図Z: http://chizuz.com/map/map144914.html

聖武天皇の恭仁京遷都は、疫病(天然痘)の流行と政情不安(藤原広嗣の反乱)から逃避のため、東国行幸へ出発(天平十二年十月)したという説があります。しかしこれは間違いだと思われます。

平城遷都後わずか30年で「恭仁京へ遷都」したことは、古代における最も大きな出来事の一つだった筈です。聖武天皇は、恭仁京に「理想の律令国家の建設」を目指していたのではないのでしょうか。

★聖武天皇の東国行幸は「日本書紀」の天武天皇の項に、記載の「壬申の乱」における大海子皇子(後の天武)に、聖武天皇は前々から非常に深い関心を抱いていたので、同皇子が吉野を出発し近江に向かって進軍したコースと同じ道を巡っています。

違いは伊勢神宮へ奉幣のため、名張から河口頓宮(関宮)へ寄った事だけです。(聖武天皇は大海子皇子が壬申の乱の最中、天照大神を遥拝する故事に倣ったのか?)

★泉乃河(木津川)の久邇里の甕原(みかのはら)離宮や、岡田離宮は風光明媚なところで、万葉集にも度々詠われており、首親王(おびと:後の聖武)の頃、元明天皇と(4回)、聖武自身(5回)行幸しているため、地形は熟知していると思われます。

★木津川左岸の泉津(いずみのつ)は、東西2.6kmにおよぶ古代の大河川港であり、各街道にも通じる交通の要衝でした。

藤原京の造営の時から、近江の杣山(そまやま):田上山(たなかみやま)の檜材が、氏川(宇治川)経由泉乃河の泉津で陸揚げされました。更に、平城京造営時には四幹線道「上津道(かみつみち)、中津道、下津道と渋谷道(しぶたにみち)」がさらに整備され、役所や寺院(東大寺、興福寺等)の木屋所もできたのです。

★遷都し新しい都城を造営するには、膨大な資金と人手が必要です。恭仁宮の東部(泉津の上流)には和同開珎を鋳銭していた銭司(ぜず)遺跡(地図Z:3番)があり、また聖武天皇は僧行基と優婆塞(うばそく)の活用も採りいれました。(優婆塞:出家した僧でなく、仏教徒で在家:ざいけ:の男性信者。女性は優婆夷:うばい)

それだけに、新しい都城(恭仁京)では、寺院勢力や旧来の政治勢力を排除して、「新都市国家の建設」に邁進する聖武天皇決意であったと思うのです。

聖武天皇が造営した恭仁京の条坊の復元は、昨年(2012年6月)発表された論文『恭仁京の復元』 古代文化 第6巻 第1号 に記載の、復元図(下図)を参照します。

恭仁京復元図.jpg

恭仁京全体の復元案で、賀世山西路を中心軸に左右京を分ける場合、従来の説は足利健亮氏の恭仁京は、賀世山西路を境に左右京がハの字型形状であり、詳細な数字が出ない変則的な都城です。

岩井照芳氏の上図は、『遷都以前から存在した木津川の大河川港「泉津」の幹線4道を、右京の基幹道に転用すれば賀世山西路を正南北の上津道に比定でき、下津道と賀世山西路間を左京に折り返せば、瓶原(みかのはら)に立地する大極殿中心軸に当たる。』と一見変則的に見える都城形態とは云え、「平城宮大極殿造営思想」を踏襲した伝統的な「左右対称」の都市計画で造営したものです。

恭仁京の条坊復元の基準点は、京都府教育委員会が発掘調査で確認済みの左京の大極殿と二条大路です。

その他の地点等は
@『続日本紀』天平13年(741)9月12日条:賀世山西路の東が左京、西が右京と恭仁京を左右に分けている。
A 遷都以前からある泉津の4基幹道が右京に所在と推定B下津道(しもつみち)沿いの大和国と山背国の国境に古来より一里塚(一本松塚)がありました。
B『令解集』和銅6年(713)2月19日格:大宝令で土地測量用と定めた大尺を改め、
小尺で測ること。となった。換算式:令大尺=令小尺×1.2  (平城京の場合:1坊は1500大尺=532m、5坊=7500大尺=9000小尺=2660m)

恭仁京の四至について:恭仁宮の四方の大垣は発掘調査で確定です。北京極(恭仁宮の北大垣の北側:一条北大路)は、二条大路(確定済)の北へ1500小尺=443.25mと推定され、左京の朱雀大路を南に一条を1500小尺で計算すると南京極は九条になっています。

古代文化の『恭仁京の復元』によると、左右京は各8坊あり、朱雀大路(180大尺)、4基幹道(各60大尺×4)を除くと、各10000大尺=12000小尺(1坊=1500小尺)となり、賀世山西路(中心軸)を按分(上津道60x1/2=30大尺)して「左京」は朱雀大路を、「右京」は3基幹道を加えれば、各10210大尺=3620mの左右対称になります。

従って、恭仁京の都城は東西各8坊で横幅は全長約7.2kmとなり、南北は九条あり、1条は1500小尺ですから、13500小尺、即ち縦の全長約4kmの京域になります。

「平城京と泉津の4幹線道」の関わりは、木津川が大水害でも、日照りが続く渇水期でも安定して物資を運ぶため、上津道(水害に対応)は平城京の外京と繋がり、中津道は左京と、下津道(渇水期対応)は直接平城宮に、そして渋谷道(現近鉄京都線)は、右京と結び、如何なるときにも物流の支障をきたさぬようにしていました。

恭仁京では「唐の洛陽」を模して、東西に流れる泉乃河を中心に、右京の泉津の機能を最大限活用できるように、3本の大橋が架けられていたことが『日本書紀』から分かります。

@ 天平13年(741)10月16日条:朱雀大路の朱雀大橋 (賀世山の東部の河に7月から造橋を開始して10月に完了)
A 天平17年5月6日条 中津道と繋がる僧行基の泉大橋 (聖武天皇の車駕が右京の泉橋に到着)
B 天平14年8月13日条 北岸の二条大路と南岸の賀世山西路を結ぶ大橋 (宮城の南大路西と甕原宮の東を結ぶ大橋)

「恭仁京の復元図」記述が少し長くなりました。聖武天皇が執った恭仁京時代の政策や、幻の如く短命で終わった「恭仁京」の“謎の背景・経緯等”については、次回にも掲載させていただきます。

◆参考文献: 古代文化 第64巻 第1号 『恭仁京の復元』  (財)古代學協會
      加茂町史 第1巻  古代.中世編          加茂町

                  <郷土歴史愛好家>
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