2013年06月04日

◆沖縄は中国の領土なのか?

伊勢 雅臣


沖縄が我が国の領土であるのは、多くの先人たちの努力の結果である。

■1.中国の沖縄領有論

中国は尖閣諸島のみならず、沖縄の領有権についても主張し始めた。次のように報じられている。[1]

<8日付の中国共産党機関紙、人民日報は第2次大戦での日本の敗戦により「琉球の領有権」は日本になくなったとした上で、沖縄の「領有権」問題を議論すべきだと訴える論文を掲載した。・・・>

論文は政府系の中国社会科学院の研究員らが執筆。琉球王国が歴代の中国王朝に対して朝貢を行う「冊封国」だった経緯を説明した上で「琉球王国は明清両朝の時期には中国の属国だった」とした。

その上で「(当時は)独立国家だった琉球を日本が武力で併合した」とし、尖閣と同様、日本が敗戦を受け入れた時点で日本の領有権はなくなったとの認識を示した。

領有権論争を沖縄まで広げておいて、尖閣諸島の対立を有利に展開しようという狙いであることは明白だが、こういう問題は一笑に付していてはいけない。国際社会では、日本側が黙っていれば、言った者勝ちになってしまう。

■2.中国領有論の変化球としての沖縄独立論

今回は、菅官房長官がすかさず「(論文が)中国政府の立場であるならば断固として受け入れられない」と反論したが、こういう問題では国民一人ひとりが史実を踏まえた上で、政府の主張を支持する必要がある。

中国も日本の国民世論の反応を見ながら手を打っているので、国民の間で轟々たる非難の声があがれば、それが中国に対する抑止力の一つとなる。逆に国民が醒めた態度でいれば、中国は「隙あり」と見て、さらに攻勢を強めるだろう。

中国の沖縄領有論の根拠については、弊誌393号「超速! 沖縄・琉球史」で吟味した。そこでは、薩摩藩が実質的に琉球を支配下に置きながら、琉球を通じて間接的に対清貿易を行っていた。そして、そのために、形式上、清国の服属国という形をとっていたのだ。しかし、服属国という形式は、その後の日清間の外交で、けりがついている。

中国領有論のバリエーションとして沖縄独立論がある。沖縄はもともと独立国家だったのに、日本に併合されて独立を失った、という史観である。もし沖縄が独立できれば、当然、沖縄経済は自立能力がないので、中国に頼らざるえず、その衛星国として中国の覇権下に組み入れられてしまう。

今回は、沖縄に関する日中の駆け引きを歴史的に辿ってみたい。そこから、国家にとっての領土とは何なのか、が見えてくる。

■3.沖縄の中にあった中国人コロニー

沖縄の歴史が明瞭になってくるのは、12世紀頃からだ。源為朝が沖縄本島南部の豪族の娘との間にもうけた舜天(しゅんてん)が王となり、沖縄を統一したと言われている。沖縄の旧家の長男に「朝」の字が多いのは、「為朝」にあやかりたいという願望からだと言う。[2,p71]

1372年に、舜天の子孫の察度王(さつどおう)が明の光武帝に朝貢を求められ、恐る恐る従ったら、その莫大な返礼を見て驚いた。以後、琉球王国は中国の華夷秩序に依存し、明との朝貢貿易で稼ぐようになる。

明は鎖国政策をとっており、外国船の出入りも朝貢船に限定されていた。明と貿易をしようとすれば、明の服属国として朝貢貿易をするしかなかったのである。さらに明は冊封国に中国人を在留させて、朝貢貿易の政務を担当させた。那覇市内の久米という地域が、中国人の居留区となっていた。

寛永21(1644)年、明が滅び、清が成立したとき、満洲族の支配を忌避して、明人(漢民族)の36姓の部族が亡命してきた。現知事の仲井真弘多氏、前知事の稲嶺恵一氏とも、この36姓の子孫である。

久米では19世紀になっても中国語が話されており、日清戦争の終了まで、沖縄を中国圏に置こうと画策していた。現在も約3千人の県民が中国子孫を自任しており、約10億円の共有預金と会館を運営し、団結は固い。

歴史的に戦乱や飢饉の続く中国大陸から大量の難民が国外に脱出してきたが、その子孫が東南アジアでは多くの国で華僑として経済的実権を握ったり、またサンフランシスコやバンクーバーでも閉鎖的な中国人コロニーを築いて、現地社会との摩擦を起こしたりしている[a]。そのミニ版が沖縄にもあったのである。

■4.薩摩藩の琉球経由の中国貿易

慶長14(1609)年、薩摩軍が約3千人の部隊をもって琉球に進攻した。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦以降、外様となって財政難に陥っていたこともあって、琉球王国の朝貢貿易に着目したのである。

琉球士族は公家のような贅沢な生活に慣れており、簡単に薩摩軍の占領を許した。島津家久は、尚寧王以下、百余名を江戸や駿府に帯同して、徳川家康、将軍秀忠に拝謁させ、島津家は幕府から琉球太守に任ぜられた。

薩摩は琉球経由の間接貿易に力を入れた。沖縄のサトウキビを大阪市場で独占販売し、その利益で本土の文物を沖縄に送り、中国に朝貢させて、その返礼で巨大な利益を上げる、というシステムである。

薩摩の役人が琉球王府役人に扮して進貢船に乗り込んだりもしていて、中国側も気がついていたが、利益のためには目をつぶっていた。

琉球王府は北殿を日本式に、南殿を中国式に建造して、それぞれの使節を歓待していた。王族一門も朝貢貿易から上がる利益で、奢侈な生活を営んでいた。

薩摩藩も、この間接的な中国との貿易で得た経済力を使って、倒幕、明治維新を果たしていくのである。

■5.「これほどまでに不幸な生活をしている人民は見たことがない」

その一方では、中国式官僚国家を築いた琉球王家の支配の下で、人民は悲惨な生活を余儀なくされていた。その一つに、明治の廃藩置県まで4百年間も続いていた「地割制」がある。

これは農民の土地私有を許さず、集落単位で8公2民の重税をかけ、さらに耕作地を2〜3年、離島地域では10年ごとに交代させる一種の原始共産制であった。

台風と干魃(かんばつ)が交互に訪れる沖縄では、本土式農業は定着せず、絶えず深刻な食糧不足に悩まされていた。そして、各地で謀反や一揆が続発していたので、それを抑えるために編み出されたのが、この制度であった。

土地の私有が許されず、しかも数年毎に「地割替え」では、農民は農地を開拓したり、改良したりするはずもない。また、各集落には王府から探偵が配置され、謀反を起こす恐れのある者を徹底的に摘発した。

江戸時代には、すでに本土では識字率男子50%、女子25%と世界最高水準を達成していたが、沖縄では農民は一切、文字も読めず、自分の名前も書けない状況にあった。

嘉永6(1853)年、沖縄に寄港したペリー提督が「メキシコの労働者を除けば、これほどまでに不幸な生活をしている人民は見たことがない」と述べている。

明治34年に、最後の琉球王・尚泰が亡くなった時、当時の奈良原繁沖縄県知事が「喪に服するよう」県民に指示したが、従ったのは旧王都首里の士族だけで、本島北部金武村にいたっては、祝いの綱引き大会を2晩にわたって行ったという。

■6.中国帰化人「支那党」の暗躍

明治4(1871)年、沖縄に廃藩置県、四民平等の太政官令がもたらされた。しかし、中国帰人の「支那党」がことごとく反対し、琉球王を「絶対に日本につくな」と恫喝し、民衆には「(清国の)黄色い軍艦が間もなく沖縄に救援に来る」と説いた。

明治6(1873)年、沖縄の年貢運搬船が台湾に漂着し、乗組員54名が蛮族に殺害された事件が起こった。日本政府は沖縄の統治権を主張して、清国に賠償を要求した。

中国は沖縄への日本統治権を認めながらも、「中国は台湾の領有権を有していない」と賠償を拒否した。このため、日本は明治7年4月、36百名の陸軍部隊を台湾に送って、蛮族を攻撃した。慌てた清国政府は日本の要求を全て呑んだ。

沖縄人民が殺害されて、日本に賠償を支払ったということは、沖縄が日本政府の統治下にあることを認めたことになる。そんな状況下でも、琉球王府は明治7(1874)年11月、独断で北京に朝貢使を派遣した。

さらに廃藩置県にも抵抗を示したので、日本政府は明治12年3月、警官160名、陸軍歩兵400余名を送って、強制執行を行った。王府役人は一人として反抗するものなく、あっさり首里城を明け渡した。しかし、その後も支那党は反日活動を続け、清国総理・李鴻章に琉球救援を依頼したりした。

初代県令・鍋島直彬は教育普及のために、小中学校を設置し、本島には師範学校を創設したが、長きにわたる地割制の愚民政策で県民の向上心は皆無に近く、効果は上がらなかった。

明治18(1885)年には、本土における就学率は男子66%、女子32%に上っていたが、沖縄は明治(1897)年になっても、男子がようやく30%、女子にいたっては5%以下に過ぎなかった。

■7.「沖縄近代化のためには命などは惜しくない」

明治25(1892)年7月、沖縄改革のピンチヒッターとして、鹿児島出身の奈良原繁が宮中顧問官から県知事として着任した。奈良原は生麦事件で英国商人を斬殺した剣豪と噂され、「沖縄近代化のためには誰が何と言ってもあとには退かない。命などは惜しくない」と語って、支那党を戦慄させた。

奈良原はその以前から沖縄への思いが深く、明治5年1月に薩摩藩士として琉球王府を訪れ、同藩の琉球への債権5万円を放棄し、それを貧民救済にあてるよう通知している。

奈良原知事の在任3年目の明治27(1894)年8月に日清戦争が始まった。沖縄県内では日清両国の勝算をめぐって支那党と白党(日本党)が衝突し、乱闘事件が頻発した。

支那党は徒党を組んで神社仏閣に詣でて、清国の勝利を祈った。県庁職員や県外出身の商人は自警団を組織し、一時、子女を本島中部の山間部に疎開までさせた。日清戦争での日本の勝利は、奈良原に絶大な追い風として作用した。

奈良原は15年間も沖縄県知事を務め、農地解放と土地私有制の確立、女子を含む教育制度の普及、那覇港などの産業インフラの確立で沖縄の近代化に貢献した。奈良原の知事ぶりに関しては、こう評されている。


<歴代の知事として何れも教育を尊重しない方はもちろんなかったが、奈良原知事は特に教育に重きをおかれ、よく県下の学校を巡視し、学用品を贈与せられ、親しく児童に接して懇諭激励を与えられる。>[1,p93]


奈良原の着任当時の小学校就学率はわずか18%弱だったが、離任時には93%まで上昇した。

明治41年4月、離任した奈良原の功績を顕彰するため、県民は那覇市奥武山公園中央に銅像を建立した。その隣には明治36年に建てられた改租記念碑(地割制廃止記念碑)があった。

■8.沖縄を本土から引き離そうとする策謀

明治41(1908)年以降、沖縄には特別島嶼町村制が施行されていた。「特別」となったのは、いまだ経済基盤が整わず、県財政の70%もの国庫補助を受けていたからである。

それでも大正5(1916)年頃から、「本土並みの地方自治」を訴える県民運動が展開された。廃藩置県に抵抗した沖縄が、今度は本土並みの要求をするまでになった。

県財政を考えれば無理があったが、国民意識の浸透という点では、それまでの日本政府や奈良原知事などの努力の結果と言えるだろう。

沖縄戦では、多くの民間人が軍と一緒になって戦い、犠牲となったが、それも本土との一体化を目指した今までの努力があったからこそである。そして玉砕に際して、沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将が送った「沖縄県民斯ク戦へり、県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」との電文は、多くの県民の心を慰め、戦後は心ある政治家を動かして、沖縄の祖国復帰の原動力となった。[b,c]

しかし、沖縄を本土から引き離そうとする策謀は、戦後も続く。米軍占領下、「沖縄人連盟」が結成され、7万人の会員を擁して、沖縄独立、地割制の復活を主張した。日本共産党は「沖縄民族は少数民族であり、歴史的に搾取、収奪された民族」として、沖縄独立論を唱えた。

昭和33(1958)年11月、沖縄でも台湾国民党政府の支援の下で琉球国民党が結成され、沖縄独立を画策する。また、沖縄戦で日本軍が沖縄の民間人を虐殺したというプロパガンダが、大江健三郎ら左翼知識人によって流布された。[d,e,f]

今回の中国の沖縄領有論も、こうした流れに乗った動きの一つである。現代の日本人は戦後の温室の中での経験しかないので、「そんな馬鹿な」と思うだろうが、沖縄が日本の一部となっているのは、我が先人たちの必死の努力の結果なのである。

それが一つ間違えれば、今の北朝鮮のような国が沖縄に存在していたかも知れないのである。そうなっていたら、沖縄県民の不幸は言うに及ばず、エネルギー輸入や工業製品輸出のシーレーンの喉元を握られて、戦後日本の高度成長も繁栄もなかったかも知れない。 

そういう日を我々の子孫が迎えなくとも良いように、現時点で最大限の努力をするのは我々の責務なのである。
<「頂門の一針」から転載>
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