中山 恭子 (講演録 一)
皆樣こんにちは。今日、教育再生地方議員百人と市民の會といふことですので教育の問題をしっかり語らねばならないのかとは思ってゐるんですけれども、私自身教育の專門家といふわけではありませんので、自分がこれまで經驗して來たことをお話し、皆樣のお考への何かの參考にして頂けたらとその樣に思ってをります。
今、司會の方から拉致問題についても話して欲しいと事でございましたので、先づそこから。
私は2002年から拉致問題に關はるやうになりました。それまで私自身、中央アジアの大使を務めてをりまして、中央アジアのことだったら自信をもっていろいろ出來ると思ってゐましたが、北朝鮮については当に素人でございまして、この問題を扱っていいんだらうか、私か關はっていいんだらうかと隨分惱みました。
ただ拉致の被害者のご家族の方々の動きを拜見しながら、自分が少しでも役に立てるのであれば、また官房長官からお聲をかけて頂いた時、(中山)成彬に相談しましたら、「君がやるしかないだらう。」と、いとも簡單に言はれてしまひまして、そのあとも一晩中考へたんですけれども少しでも役に立てるかも知れないと、そんな思ひで關はることになりました。
この拉致問題、語り始めましたら それぞれのところに歴史があります。それぞれのところに大變重い話がございまして、何時間盡くしても語りきらない、さういふテーマでございますが、今日はその中のごく、本當に掻い摘んだこととなりますがお傳へしたいことをお話していくつもりであります。
この拉致の問題に關はりました當初から、なぜ外國の工作員、といふのはスパイですが、自由にと言ってもいいほどいとも安々と日本に入って來る。工作船が沖合に停まってそこから小さいボートとか、スクリューのついた、何て言ふんでせうね、水の中を僭って入って來る。
何故日本といふ國は外國からの工作員を安々と入れるやうな状況のままになってたんだらうか。しかも入ってきて日本の國民を大きな、例へば木の陰に、これは曾我ひとみさんのケースですが母親と二人で、夕食の買ひ物に出て、その途中で大きな木のある處に二人とも連込まれ、そこから後は母親がどうなったか全く分からない。
連込まれてすぐに猿ぐつわをされて兩足を縛られて袋に入れられました。
北朝鮮こ行ってから、母親はどうしたかと聞いたら、佐渡に歸して元氣で
ゐますよと、そのやうに教へられてきたといふことでございました。
そんな事もあって、ついでで申し上げますと、そのタラップを降りて來る時に五人ともいろんな思ひがあったんですが、曾我ひとみさんの場合には、母親はすでに日本に歸したと北朝鮮の人から言はれてるものですから、あのタラップの上に立つと下に居る家族は勿論、親戚の方とか友達、先生とか、タラップの下まで迎へに來てくれたんですが、あの曾我さんの瞳、中に寫眞が入ってゐるかと思ひますが、非常にきつい顏をして笑みも全くありませんでした。
あれはもう必死で母親を搜してゐた、さういふ目だらうと、下から見てですね、一瞬、胸がつかへるやうな感じを受けたことがございます。
そしてこの北朝鮮の拉致問題、勿論被害者は大變可哀想、ご家族の方もほんとに苦しい思ひをして大變だと思って頂きたいと思ってをりますがそれだけではなくてこの問題、やはり國といふもの、國家といふものを日本の人々に思ひ起こさせてくれたさういふ問題である、事案であると考へてをります。
歴史を思ひ出して頂けたらと思ひますが、西暦で言ひますと1945年昭和20年、これは敗戰の年です。そしてその後7年間、日本は占領下に置かれました。ですから1952年4月28日にサンフランシスコ講和條約が發效して日本は獨立したんですけれども、昭和27年、この時朝鮮半島で何か起きてゐたかといふと、1950年〜53年、丁度この昭和25年から28年にかけて朝鮮戰爭がありました。皆樣覺えてをられる方も多いかと思ひます。
で、53年に朝鮮の中では休戰協定か結ばれます。休戰協定があれば、そこから1ヶ月後とか少なくとも半年以内に講和條約、平和條約が結ばれる。さういふ前提のものが休戰協定と呼ばれてゐる。朝鮮半島の中では1953年に休戰協定が結ばれたまま講和條約が成立せすにずっとそれが今も續いてゐます。
北朝鮮にとってみれば、朝鮮當島の中で平和の世界が出來てゐるわけではない。一旦休戰してゐるのみといふ感觸をもってゐると云へます。ですからいつでも韓國を併合する、今もさう思ってゐます。
1953年以降北朝鮮は韓國に對して何としても併合したいといふ強い思ひを持ち續けてきてゐます。ですから北朝鮮は韓國に對してその後あらゆる形の工作活動を重ねます。この工作活動をするに當って必要なのが日本人といふことです。
日本人の拉致の主な目的は對南工作と言ってもいいほどに韓國に對する工作活動に日本人を使はうとしてゐたといふ事が云はれてをりますし、私もそのやうに考へてゐます。
何故かと云ふと北朝鮮の人が韓國に入って工作活動をするといふ事は非常に難しいそうです。生活習慣は一緒なんてすが、言葉が違ふさうでして、すぐに見破られてしまふ。そのためにどうしたらいいか、韓國にいつでも入れる、または世界中何處にでも入れる日本人に成り濟ます、又は日本人を工作員として使ふ、それを考へたやうでした。
どういうケースかと言ふと、さっき1953年に休戰協定、そこから十年後ぐらい1960年代半ば頃に北海道、それから東北地方を主として、高校を卒業するかしないかの若者達が姿を消してゐます。日本政府は全く證據がないといふことで拉致の認定が出來てゐません。
ただ幾つかのケースを、話を聞いていきますと非常に似た事がよく聞かれます。それはどういふ事かと言ひますと、その姿を消した若者は仲間の中で非常に信頼されてチームのリーダー格、勉強もよく出來る、體操もできる、體もがっちりしてゐる、そして責任感が強い、かういふ共通點が一人づつその、殘された家族の方、友人達から話を聞くとさういふ樣子が見えてまゐります。
ある若者は3月に卒業生の總代として出ることが分かってゐて、卒業式の前日に總代の練習をして歸りが一人になる、一人で戻る。家に戻ったかどうかがはっきりしないんですけれども、その、ボタンを買はなければと言ってゐたといふ事が殘されてゐますが、そのまま姿を消してしまってゐます。これが60年代に多く見掛ける事案です。
70年代半ばぐらゐになってきますと(小さいパンフレットが中に入ってゐると思ひますが)ここを見て頂いたら分かりますが、1970年代、ついでですみません、最初に出てくる久米裕さん、53歳でゐらっしやるんです。
これは北朝鮮に連れて行って工作活動に使ったと言ふよりはこの久米裕さんと十一番の原敕晁さん、この二人は警察用語でハヤノリと言はれてゐます。何かと言ふと北朝鮮工作員が日本に入ってきて自由に活動する爲に自分が原敕晁さんや久米裕さんに成り替はってしまひ、戸籍謄本を取りそれから住民票も取り自動車の免許證には北朝鮮工作員の自分の寫眞を貼り、パスポートも自分の寫眞を貼って世界各地に飛んでゐます。
原敕晁さんの身代りになったのはあの有名な辛光洙という工作員で、韓國まで飛んで活動しようとして捕まって死刑宣告を受けました。ところが日本からこの中に例の土井たか子先生とか菅直人先生とかさういった方々が署名の中に入ってすごい數の人達が韓國政府にプレッシャーをかけて、で韓國は辛光洙を釋放して彼は北朝鮮に戻りました。
辛光洙は北朝鮮では英雄といふ稱號を與へられてパレードの時など非常に高いポジションを持ってゐます。その拉致に關はった北朝鮮工作員といふのは犯罪人ではなくて北朝鮮の中では英雄扱ひをされてゐる。さういふ状況がはっきり見えてまゐります。
70年代に拉致された田口八重子さん横田めぐみさん松本京子さん田中實さん、かういった人々、それから78年にはアベック拉致と言はれて蓮池さん御夫妻地村さん御夫妻増元さん御夫妻、今御夫妻ですが當時はまだ戀人どうしといふアベックで拉致されてゐます。
この人々は主として北朝鮮工作員を日本人のやうに仕立て上げる爲に連れて行かれました。ですから典型的な日本の家庭で日本的な躾を受けた若者たち、これが必要でした。
日本語が上手な人々は日本にたくさんゐますけれども、それだけではなくて典型的な日本の家庭で育った者でなければいけなかった。その仕草がやはり少しづつ違ふといふことで日本人になるには日本的な家庭の子供でなければいけなく、典型的な日本の家庭が眞似されてゐたといふ事です。
この北朝鮮による日本人拉致といふのは、激しい爭ひの中で使はれてゐる。海上保安廳との撃ち合ひで沈んだ北朝鮮工作船、最後自爆したわけです。さういった動きですとか、大變激しい國際社會のの動きの中で日本人が拉致されてゐるといふ事でございます。
その中で五人が戻りました時に私自身はどんな理由であれ一旦北朝鮮から出て、日本の土を踏んだ以上、歸してはいけません、といふ主張をいたしました。
このいろんな議論を長々とお話してゐると時間がなくなりますが、その中で一點だけお傳へしておきたいのは、その日本政府が戻って來た五人を日本に留める、最終的には安倍官房副長官の決斷を得、福田官房長官の了解をとり小泉總理の前で議論してその線を打ち出すことができました。大變事務方では激しい議論が鬪はされました。
安倍官房副長官がちょっと一旦ぢゃあ休憩しませうといふ事になって、官邸で總理は五階の部屋で安倍官房副長官も五階、表玄關から入ると三階なんてす。その三階には報道關係者がたくさんゐて、その時に「何を揉めてるんですか?すべて計畫も豫定も作られてゐて、子供にお土産を買ふ時間もつくられてゐる。すへて企畫されてゐるのになんで揉めてゐるんですか?」といふ質問されました。その時私自身素直に答へました。それ國家
の意思の問題ですと答へました。
これが全國にそのまま流れました。だけどもインタビューした方は國家の意思の問題といふのが何を意味してゐるのかも解らなかったのかも知れません。その後、國家といふ單語を使ふとは何事かといふびっくりするやうな非難メール、FAX、電話がたくさん寄せられました。
私自身は國家といふ單語は當然の言葉として使ひましたのですが、日本の中では戰後、國家といふ單語は便はれない、さういふ状況が續いてをりました。
2002年の十月、たったの十一年前まで日本は國家といふ意識をもってない。國を護るとか國防といふ單語も使へない。國家が國民を守るといふやうな文章は殆どなかった。さういふ日本てありました。
お蔭さまで今國家といふのは當然のこととして使へますし、國家なくして國際社會に存在しえないといふ事も多くの方が理解して下さるやうになりました。
それでもその時5人を政府が日本に留める、そして子供や家族の北朝鮮に殘してきた人々の身の安全と歸國を政府が責任をもって要求する、かういふ政府方針、非常に簡單な一枚のペーパーですけれども、戰後の外交政策の中にあって非常に新しい考へ、「國民を守るのは政府の責任である」この考へ方が外交政策の中に入った瞬間だったと思ってゐます。そして五人を歸さなかったことに對して隨分批判もありましたけれども、この時の措置といふのは、間違ってゐなかったと思ひます。
今、北朝鮮がどうなってゐるか、非常に厄介な問題です。金正日總書記の間に何とか話をつけて歸國させようといふ思ひで努めてをりましたけれども、政權交代といふ事が日本の中で非常に賑やかに騷がれだした頃から、北朝鮮はやはりひいてしまひました。
非常に殘念な思ひをしたことでございましたが、さういった意味で金總書記の時に取り戻せなかった、大きな、私自身は忸怩たる思ひといふか、もう、悔いても悔いきれない。
今、金正恩第一書記の時代になりました。金總書記の時代に比べるとよく周りを取り圍んでゐる將軍達、軍の關係者といふのもそれ程國際社會での經驗があるわけではありません。
その外交としてまた北朝鮮とどの樣に維持していくかといふ事についても、金總書記の時に比べてもまだまだ足りてゐない樣子が見えますので、これは非常に注意深く見ておかないといけないし、いつでも對應できる體制をとっておかなければいけないと思ひます。
さらにこの問題では、中國の存在といふものが非常に大きな影響力をもってをりますので、中國の動きも注意深く見て動いていかなければいけない。今、政府の中に直接入って拉致問題を擔當してゐるわけではありませんが、さう言った思ひはいろんなカタチで政府の方に傳へてきてゐるところでございます。(つづく)
(講演は4月 27 日「NPO法人百人の會」總會でのもの。要録が同會の活動報告6月 15 日號に掲載。漢字制限假名字母制限を無視することについての許諾を得て入力、算用數字も基督教暦の年數以外は原則としてあらためたのは位取り式では苦しい箇所があったため。長いので2囘に分けての前半。上西俊雄)
<「頂門の一針」から転載>