2013年06月20日

◆奄美大島の歴史と文化

平井 修一


カミサンと出会ったのは1979年(昭和54)、小生が28歳の時だった。カミサンは「大島出身です」と言った。伊豆大島なら東京から飛行機で30分ほど、船で2時間ほどだから、まあ近いのだろうなと思っていたが、後知ったが、奄美大島だった。こちらは船なら48時間、飛行機でも2、3時間以上はかかるからずいぶんと遠い。

「大島」と聞いて、関東の人は伊豆大島を、関西以南の人は奄美大島を思い浮かべるだろう。東京からの距離の違いもあるが、伊豆大島は本土と歴史・文化を共有している一方、奄美大島は全くの別天地だった。

本土から隔絶し、神代の時代から独自の歴史・文化を持っていた。言葉も違うから、初めて訪れたときはまるで外国のように感じた。

カミサンが生まれたのは奄美大島本島の秋名(あぎな)という集落である。今は鹿児島県大島郡龍郷町秋名という。本島の北端に近く、最大と言うか唯一の町である名瀬(なぜ)からは、30年ほど前に行った時は車で山道をたどり1時間はかかった。

カミサンが育った昭和20〜30年代は陸路が整備されていなかったから秋名−名瀬はもっぱらポンポン船に頼っていた。今は海岸沿いの道ができてとても便利になった。

秋名は秋名湾に面した風光明媚なところで、今は過疎化がすすみ見る影もないだろうが、かつては奄美名産の大島紬(つむぎ)発祥地として、周辺でも最大の村だったと聞く。「コナハジマ」(小さい那覇)と呼ばれていたからかなり賑わっていたが、今(平成25年)は人口233人、134世帯にまで縮んでいる。

それでも秋名は年に一度は全島の注目を集める。旧暦8月最初の丙(ひのえ)に行われる祭事「平瀬マンカイ」「ショチョガマ」は、国の重要無形文化財に指定され、毎年多くの見物客が訪れる。

このふたつは「秋名アラセツ(新節?)行事」と呼ばれ、山と海から稲霊(いなだま)を招いて五穀豊穣に感謝し、来年の豊作を祈願する。

「ショチョガマ」は夜明けとともに片屋根の小屋を揺り倒して豊作を祈る。「平瀬マンカイ」は秋名湾西岸にある「神(カミ)ヒラセ」と「女童(メラベ)ヒラセ」と呼ぶ2つの岩で豊作を祈る。

<原初的なカミは非人格、非意志的であって、むしろタマ(霊)と呼ぶにふさわしいものであった。奄美のシチャガマと平瀬マンカイは、イナダマ(稲霊)を招く行事である。田袋(たぶくろ)という広い水田を見下ろす山の中腹に粗末な小屋をこしらえて、その屋根の上に大勢の男たちが乗る。男の神役が二人、

「佐仁(さに)や用仁(やに)の稲霊も、西、東、伊津部(いつべ)の稲霊も、みな秋名の田袋に、より集まり給え、はち切れるほど実って田袋の名をあげ給え」

と祈る。そのあと屋根に上ったものはみんなで、

「西からも揺りゆり、東からも揺りゆり、西東の稲霊、招き寄しろ」

と言いながら小屋を揺りつぶす。イナダマ(穀霊)の再生をうながすのだという。

その日の午後、秋名の人たちは平瀬のある砂浜に集まる。平瀬は、波打ち際の海潮の上に出ている平たい岩で、神平瀬と女童平瀬が十数メートル離れて向かい合っている。両方の岩に立った人たちは、

「玉の石のぼて、何の祝(いえ)取りゆる、西東の稲霊様(いにかな
し)、招き寄しろ」

などと歌い、舞う。マンカイが終わると、海の彼方の原郷であるネリヤのほうを向いて拝み、稲霊を招き寄せる>(谷川健一「日本の神々」)

ネリヤは「海の彼方の、豊穣や生命の源である神界」だという。この神代を思わせるような古式蒼然とした祭りだけでも奄美の歴史・文化のユニークさがうかがえるが、どのようにして培われてきたのだろう。郷土史家など研究によると――

奄美は古くはヤマト政権の直轄地であったが、12世紀末には壇ノ浦で敗れた平家の落ち武者がたどり着き、平氏文化を伝えた。ノロ(神女)による祭礼や年中行事のほとんどが平家武者たちから伝承されたものと言われている。

その後、1440年前後から1609年までの約170年間は琉球王朝の支配に入り、これによりヤマトと琉球の両方の文化が出会うが、独自性は失われていない。すなわち、奄美文化のベースにはヤマトと平氏の文化があり、その上に琉球文化がかぶさった形で多様性をもつようになる。

続いて1609年から1871年までの約260年間は薩摩藩の統治下に置かれた。薩摩藩ではキリスト教と浄土真宗を禁止する宗教統制を行ったが、信者がほとんどいなかったことから、これは問題はなかったようだ。しかし、薩摩支配は苛烈を極め、重税を課された島民たちの生活は苦渋に満ちていた。

ヤマト、平氏、琉球、薩摩、そして明治政府と、支配者は代わったものの、長い歴史の中で独特の文化や慣習が形成されていったことが、集落(シマ)の祭礼や年中行事、音楽や舞踊を見てもうかがえる。秋名など大島本島北部は琉球色が少ない分、奄美の原風景が残っているようだ。

カミサンによると奄美の信仰は基本的に神道であり、これにノロ(神女)やユタ(民間巫者)などの民俗信仰が交じり、仏教の影響をほとんど受けていない。

冠婚葬祭は神道で行い、彼女が子供の頃まで、葬式では会葬後に死者をいったん土葬し、数年経ってから遺骨を掘り起こし、海で洗骨してから瓶(かめ)に入れて海岸の洞窟に安置する習慣だったという。

「仏教の影響をほとんど受けていない」というのは驚異的である。実際に仏教が奄美に進出したのはつい最近、明治維新以降で、「奄美大島における近代仏教の布教過程の特質」(鹿児島大学)にはこうある。

<1878年、浄土真宗本願寺派(西本願寺)によって、奄美大島の中心地の名瀬に名瀬説教所が開設された。この説教所は、西本願寺における鹿児島県下での近代布教の一端を担っていただけでなく、県内離島地域への布教を開始する役割を果していた。仏教に続いて1892年にカトリック、その翌年には天理教が奄美大島での布教を開始した。

こうした近代以降の奄美大島の宗教史を整理すれば、名瀬説教所が開設された1878年を基準にして、それ以前を「民俗信仰中心の時代」、それ以後を日本本土から入ってきた組織的な「既成宗教の伝播・布教の時代」に分けることができる。

現在は、宗教法人の登録数で言えば神道系が最も多く、次いでキリスト教系(カトリック)、仏教系という情勢になっている。しかし、ノロやユタなどの民俗信仰も残っていることから、諸宗教の混在期にあると言えよう>

奄美はシマ(集落)ごとに宗教も異なるし、北部と南部では互いの言葉が通じないほど文化も異なり、カミサンは「ひとつ山を越えた隣の集落とも言葉が違った」と言っている。閉鎖的だったかもしれないが、これが独自の文化を醸成するには有効だったのだろう。(2013/06/18)

<「頂門の一針」から転載>
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