2013年07月12日

◆匿名の投稿は楽しい!

馬場 伯明


渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」の本文と反響欄への投稿基準は、主宰者から示されている。《ご感想、ご投稿をお待ちしております。ただし本名で署名の上、匿名希望なりハンドルネームなりを書いてください。(本誌「身辺雑記」)》

つまり、掲載権限は主宰者。投稿者が本名(実名)を主宰者に開示し、誌上掲載では匿名希望やハンドルネーム(仮名)を認めるというものだ。

《【匿名】実名をかくして知らさぬこと。「−批評」(広辞苑 第2版)》。《【匿名】名前を隠す。また、隠し名。(角川漢和中辞典90版)》

本稿では、作家らの筆名や仮名、芸能人らの芸名など業務用のものは対象とせず、もっぱら自分の正体を隠す目的で匿名や仮名にする人(以下「匿名者」とする)を念頭において話を進める。

ネット掲示板、ブログ、メルマガの発信者(書き込みを含む)は匿名者が多く、ツイッターとフェイスブックは実名者が主である。匿名者といっても大半が真面目な善意の匿名者であろう。だが、違う匿名者もいる。冷やかし、嫌がらせ、おせっかい、クレーマー、脅迫・・・。

新聞の「声」欄の投稿文に加え実名の投稿者の詳しい住所や電話番号を探索しネット掲示板や匿名ブログに公開した者がいると新聞にあった。「売国奴」「お前の家はわかっているぞ」「・・・」など匿名電話による嫌がらせもあったという。(朝日新聞2013/6/28)。

これは卑劣な行為である。全体感では逆効果であろう。そもそも、なぜ匿名の投稿をしたいのか。なぜ覆面で他人にそこまで干渉するのか。

夜の居酒屋で友人らと「匿名談義」になった。話すうちに高尚な理論ではなく「匿名の投稿は楽しい!」からだという平凡な結論に至った。

私は実名主義の常識人間であり投稿やコメントも実名だ。でも、匿名者の心理にも関心がある。次は、居酒屋で出た「楽しい匿名」の事例である。

《 嘘を書いても生身の自分は特定されず気が楽。/貧乏人から金持ちに変身。/変装と変身は楽しい。/精神の自由を満喫。/偉そうに振る舞い博士と名乗る。/老若男女に成り済ます。/実名者を闇討ちする優越感。》

《 無責任な発言や発信が通用。/目上や上司に軽口やため口。/仕事や地位を離れ正論を発信。/自分の書き込みに他人が賛成すると嬉しい。/スーパーマンになったような気分。/変身は別名にすれば問題なし。》

匿名の投稿は楽しく匿名者はその甘い蜜の虜になる。実世界とはまったく別の精神の自由と優越感が得られるという。「スーパーマンになった気分」という話もうなずける。

本誌した欄には匿名者のコメントも自動的に掲載される。確信犯的なコメント?を書く「黒ラブ」氏には少し同情する。今さら実名を明かせば「何だ、おまえか」と集中攻撃を浴びるだろうから(最近登場が少ない?)。

実名者は匿名者を嫌う。だが中身の検討が必要である。じつは、実名者が相手に求める真意は「真面目な投稿を!」のみ。良識と道徳性を堅持し発信してくれれば、(私は)相手は実名・匿名のどちらでもいい。

嫌うのは理不尽な主張と罵詈雑言である。「ババア、くたばれ!」「・・・(体の欠陥を!)」「・・・無」など。でも、それを実名者が発信すれば「天に唾する」結果になる。(だから、実名者は愚かな発信は控える)。

実名者のブログ等に匿名者が土足で侵入し(投稿し)軋轢が先鋭化する。ところが匿名者はネットの治外法権である闇に逃げる。「卑怯者、名を名乗れ!」。実名者は空しく叫ぶだけ。

だが、匿名者はしれっと余裕だ。「私の質問に答えていない。反論できないの?自信がないの?」と不毛な掛け合いに持ち込み、楽しむ!

唯一、匿名者間の純粋の学術論争など実名より有益な場合がある。地位・身分・性別・年齢などの周辺要素が捨象され、先入観なく地位や肩書から離れ自由な論争ができる。【例】A教授と(若い)B助教の論争。

【例】科学系ブログ「kikulog」では菊地誠阪大教授の関心事に匿名者の賛否・疑問等が書き込まれ真面目な議論が展開される。100件超のときもある。菊地教授は「通りすがり」「匿名」等、発言者の同一性が判然としない「捨てハンドル」でのコメント投稿は削除と予め宣言している。

匿名者には「匿名をやめなさい」と諭しても効果はない。なぜって「匿名の投稿は楽しい」からやめられない。

海水浴に喩えると・・・。泳げない(匿名)者が(匿名の)浮き輪で泳ぐ。浮き輪は沈まない。優越感から、つい、他の遊泳者の頭を押さえ、足を引っ張る「悪さ」をしたくなる。(自分の身の危うさがわからない!)

じつは10数年前、ある雑誌に私の過激な匿名の投稿が何回か掲載されたことがある。【例】「宗教団体の悪い特権」「私が殺したくなる人」など。

掲載直後は気分爽快で高揚感があった。だが、数日後、犯罪者に堕ちたような悔恨とある苦い塊が心の奥に沈澱し、長い間消えなかった。

華やかなインターネット時代における、臆病者の匿名者の心の真実と心の(裏の)闇とはどう繋がっているのだろうか。

本稿の最後に「『大波小波』匿名批評に見る昭和文学史・第一巻」(東京新聞1979発行)から、長くなるが、中村光夫氏の巻頭の一部を引用する。現代の(奢れる)匿名者に正座して聞いてもらいたいが・・・。

《・・・名を秘してものを言うのは本来臆病者の仕事です。と言って悪ければ、匿名は批評のなかでもっとも遊戯的要素が強い仕事です。そこには顔をかくしてものを言う洒落気と、「公衆」の代表者をもって自任する正義感と、力を自負する相手を「術」で倒す熟練とが、溌剌と結合していることが必要で、

さらに文学に対する無償の、自己顕示欲をはなれた愛情があれば申し分ないのですが、その根本の魅力をなすのは、一度ごとに読み捨てられる文章を思い切った告白の場とする人眼につかぬ誠実です。短評の文章に文学としての生命をあたえるのはこの半ば無意識の正直でしょう。》

匿名者であってもこのような「無意識の正直」者でありたいものである。「文学」を自分の分野の語彙に置き換えても、中村光夫氏が書いた匿名(批評)の意義の普遍性は今も色褪せていない。(2013/7/7千葉市在住)

(追記)

実名者と匿名者の関係を整理した。(1).匿名者が匿名の投稿をする。(2).匿名者にとって「匿名の投稿は楽しい。(3).実名者は匿名の投稿が嫌い。でも実名者の真意は匿名者の排除ではなく「真面目な投稿を」である。

(4).つまり、悪意の投稿や罵詈雑言はやめてほしい。(5).だが、匿名者は(4)には不満。なぜか?♪楽しくないから。(6).そして、匿名者は、また(1)の匿名の投稿にもどる。

あれっ〜〜、ぐるっと一回転だ。「♪まわるまわるよ 時代はまわる 喜び悲しみくり返し・・・」(「時代」中島みゆき)。

<「頂門の一針」から転載>

 
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