2013年08月04日

◆木津川だより  銭司遺跡@

白井繁夫


木津川右岸にある「恭仁宮の遺跡」(大極殿跡:山城国分寺跡)から東方約2.5km上流へR163号を行くと、「銭司遺跡:ぜずいせき」(地図Z:3番)があります。
地図Z:http://chizuz.com/map/map144914.html

実は、木津川市加茂町銭司の地区にあるこの遺跡で、「皇朝十二銭」の第1番目にあたる「和同開珎:わどうかいちん・わどうかいほう」が鋳造されていたのです。ところが迂闊にも、木津へ移住して長年月を経ております私自身、このことに全く気付いていなかったのです。

私の日本史の知識は中学生と同等以下ですから、「和同開珎」と云えば、秩父市にある「和銅遺跡」が有名であると云う程度でした。(私は約60年前、商業高校(四国のさぬき市)へ入学し、当時は商業科目中心の為、大学受験の社会科は世界史と人文地理(独学?)の2科目をとり、日本史は中学生止まりです。)

しかし、市内を流れる木津川沿いの「恭仁京」を学んだとき、私にとって、「銭司遺跡」は真に目から鱗でした。以下、銭司地区で感じた事など混えて記述します。

加茂町銭司地区は古くから銅滓.坩堝(るつぼ).ふいご羽口.古代の瓦などが発見されており、
他方、旧の地名表示から見れば、大字「銭司:鋳銭司」、小字「金鋳山、金谷、山金谷、和銅等」など、鋳造関係の地名が昔から存在しています。

ところが、最初の疑問はこの地区には銅の鉱床を持つ山など無いと思っていたのに、古代の都(平城京、恭仁京、平安京等)に近いだけで貨銭を鋳造するはずはない。何故だろうと、興味を持ったことからスタートしました。

「銭司遺跡」は小字「金鋳山」に在り、東西約100m,南北約150m の面積で、南側の木津川に向かって緩やかに傾斜している地形です。この金鋳山の各地から各種の鋳造関係の遺物が出ました。

大字「銭司(鋳司)」の北側の山は標高200から300mで、木津川に沿って東西に走り、南の台地に約50戸の銭司集落が点在しています。

小字「金鋳山」で完形の「坩堝」が明治4年、「和同開珎」50枚が明治10(1877)年に発見され、大正時代初めの伊賀街道改修工事中、坩堝片.銅滓.古瓦片等の遺物が多数出土し、
1923年(大正12)京都府史蹟勝地調査委員、(梅原末治氏)が試掘調査を実施しました。

写真はR163号沿い(字金鋳山)の「鋳銭の碑」と大字「銭司の集落」です。

P1010337銭司遺跡の碑.jpgP1010339銭司の集落.jpg

出土した遺物
★「坩堝:るつぼ」は3形式有り、第1式から第3式への過程は坩堝の製作技術の発展段階を示しております。
★「鞴口:ふいごくち」は2形式(第1式は筒型、第2式は朝顔形開き):筒型は坩堝の第1式、
朝顔形は第2、第3式に対応しています。

・遺跡の年代
遺跡の遺物は「長門の鋳銭」と相似ていますが、さらに進歩した器具もあり、「恭仁京」の古瓦と同一の瓦も出土しており、「恭仁京の造営」と共に鋳銭司が置かれ鋳銭が行われたと推定されています。

貨幣は、和同開珎の晩鋳より万年通宝(760年)、神功開宝(765年)天平神護の通貨まで、
この地で鋳造されていました。(相楽郡岡田郷の鋳銭司は天平7年(735)から延暦元年(782)まで約50年間設置されており、その間貨幣が鋳造されたと云われています。)
その後、桓武天皇の財政整理で廃止され、隆平永宝(796年)に切り替わったのです。

・この遺跡の時代背景
和銅元年(708)発行の「和同開珎」は鋳造技術、鋳造体制より量は少なく用途も古銭同様神事や仏事などにも使用されていました。

しかし、平城京.恭仁京.難波宮.平安京の造都事業や盧舎那仏の製作に多くの雇役丁が投入されその功直も銭給となり、大量の銭貨が必要になりました。

大量銭貨の鋳銭事業には、@銅鉱の存在A鋳造技術者B良質の粘土C水運の利便などが非常に重要な要素「必要条件」です。

奈良時代、ここの遺跡に「岡田の鋳銭司」が置かれた理由:即ち、@〜Cの必要条件を満たせた状況について、次回にもう少し説明させて貰いたいと思っています。

参考資料: 銭司遺跡 (加茂町文化財調査報告第1集) 1986 加茂町教育委員会
      加茂町史  第1巻 古代.中世編    加茂町

( 郷土愛好家)
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