2013年08月08日

◆ローマ皇帝アウレリウスの憂い

平井 修一


「人は死しても名を残すべし」(五代史)と言うが、有名人でも死後50年、名を残している人はまずいない。例えば人気作家。

「あ」で始まる没後50年以上の作家には愛知敬一、会津八一、饗庭篁村、青木栄瞳、青野季吉、青柳喜兵衛、秋田雨雀、秋田滋、秋月種樹、秋野平、芥川龍之介、浅井洌、朝倉克彦、浅野和三郎、東健而、阿部次郎、阿部徳蔵、有島武郎、淡島寒月などがいる。

ところが小生が読んだことのある作家は芥川、有島、淡島の3人に過ぎない。饗庭(あえば)は名前だけは知っているが、それ以外は全く知らない。ほとんどの人は小生と同様ではないか。

「死体からノミが離れていくように、作家が死ぬと読者は去っていく」と山本夏彦翁は書いていたが、有名人でもそうであるのなら凡夫凡婦は没後10年もたてばほぼ完璧に世間から忘れられる。

無残な話だが、それが社会の新陳代謝であり、健全なのだろう。

ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスは121年4月26日生まれ、180年3月17日に満58歳で没した。40歳の161年に帝位を継承し「第16代ローマ皇帝」になったが、当時の支那は後漢、朝鮮は高句麗、新羅、百済。日本は「記紀」によれば第13代の成務天皇時代にあたる。

成務天皇が実在したかどうかさえ不明で、当時は弥生時代の後期、卑弥呼が邪馬台国を治める以前であり、諸国が対立し互いに攻め合っていた「倭国大乱」の頃である。国家らしいものができる以前のことだからほとんどで神話の世界である。

しかし、弥生時代後期末の遺跡から発見されたガラス玉は古代ローマ帝国で作られたガラスを素材にしていたというから、後漢経由でアウレリウス皇帝治下の文物が日本にも伝わっていたようである。

いずれにしても気が遠くなるような2000年も昔のことであるが、アウレリウスが自分自身のために書いた思索のメモが残されていたために彼の名は今も広く記憶されることになった。

このメモの原題は「自分自身へ」で、現在では「自省録」として世界中で読まれている。アウレリウスがこれを書いたのは166年から176年、彼が45歳の頃から55歳の頃らしい。50歳前後の頃、彼は自分を老人だと言っているが、当時の人は何歳くらいまで生きたのか。

先先帝は62歳没、先帝は74歳没、彼は58歳没、次帝は31歳没(暗殺)、次次帝は67歳没(暗殺)である。暗殺された皇帝は参考にならないが、子供の死亡率はとても高かったものの、2000年前でも長生きする人は長生きで60〜70歳くらいまでは生きたようである。

戦前の日本では定年の50歳は初老人と呼ばれ、それから70年後の今は60歳で初老、65歳あたりから老人のようだ。

アウレリウスの時代では、彼が「自省録」書いた45〜55歳は壮年期の終わりから老年期で、心身ともに疲れ果てていたのだろう、「死」についての記述が多い。精神科医の傍ら「自省録」を翻訳した神谷美恵子は、「この書は人生の重荷と孤独と悲哀の産物で、彼の心がしばしば死に向かったのもうなづける」と書いている。

<自分が誠実に、謙虚に、善意をもって生きているのを誰も信じなくても、誰にも腹を立てず、人生の道を外すことなく、目的に向かって純潔に、平静に、何の執着もなく、強いられもせず、運命に従って歩んでいかなくてはならない。

人の一生は短い。私の人生も終わりに近づいた。それなら自分で自分自身に敬意を表し、人の評価は気にするな。

寿命が延びたところで知力を保てるのか。もうろくし始めれば分析力、判断力、推理力、洞察力、注意力は真っ先に衰える。人生を去るべきではないかという判断さえもできなくなる。だから機能が衰える前に急がなくてはならない。

自分が死んでいくときに、それを歓迎する者が一人もいないというような幸運な人間はいない。誠実な賢者でも「いなくなって清々した」などと言われるのだから、我々をお払い箱にしたい者はたくさんいるだろう。だからこの世に執着する気、未練はない。

しかし、「いなくなって清々した」と言う者に対しても善意をもち続け、最期まで友好的、親切、慈悲深くあれ。死に際は、魂が肉体からスーッと抜け出ていくような大往生の趣が大事だ。

自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。よく熟れたオリーブの実が、わが身を産んだ地を讃え、わが身を実らせた樹に感謝しながら落ちていくように>(「自省録」)

彼が皇帝になったのは運命である。普通の家に生まれれば学者か宗教家、能吏として平穏な生涯を送ったろうが、名門に生まれた。誠実で真面目、学問好きのひ弱な神童だったが、ストア派哲学にかぶれ、自制心や忍耐、道徳、禁欲を学び、やがて体も鍛えて「文武」の人になった。

先先帝から愛され、次いで先帝の養子になり、そして40歳で皇帝になった。ローマ帝国全盛時代の最後の頃で、パクス・ロマーナ(ローマの平和)に亀裂が入り始め、内憂外患の多難な時代であった。彼は内にあっては仁政に努め、外に対しては蛮族の侵入を阻止する領土防衛の最高指揮官として東奔西走、前線に皇帝旗をなびかせた。

<読書と瞑想が何よりも好きな内向的で“孤独と憂愁の人”アウレリウスにとって、皇帝としての責任を一身に負い、政務や戦争に忙殺されるのは決して有難いことではなかった。しかし義務観念の強い彼は、全努力を傾注して仕事を果たし、また自分の理想とするところを現実化しようと心を砕いた。不幸にして彼の在位中はほとんど絶えず戦争が続き、ために席の温まる暇もないくらいであった>(神谷美恵子)

モーゼズ・ハダス著「ローマ帝国」にはこうある。

<有名な「自省録」は、アウレリウスが戦いの合間に寸暇をみつけて書きつづったものである。ほどなく帝国の財政、人的資源は戦争のために窮乏していった。多数の男子が辺境から召集されたために、農民は人手不足になり、畑仕事を蛮族に頼むようになった。皮肉にも蛮族はこうして帝国の辺境地帯に定住しはじめたのである。折悪しくペストが国中に蔓延し、人々は士気を失い、帝国は危機に瀕していった・・・>

アウレリウスの最期も出征先の戦塵の中、疫病に倒れたのだった。「哲人君主」の評価と「自省録」により彼は2000年後も名声を保ち続けているが、果たして彼は幸福だったのだろうか、悔いのない大往生だったのだろうか、小生には分からない。(2013/08/04)   

<「頂門の一針」から転載>
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック