2013年08月11日

◆「原発ゼロ」の理論ゼロ

平井 修一


今朝(8月10日)は6時にはすでに室温は33度、9時には34度、正午にはなんと37度とわが家の記録を更新した。今日も終日クーラーの世話になるだろうが、電力供給は大丈夫なのか。東電も関電も使用量は能力の90%を超えているというから、かなり限界に近づいているようだ。

資源エネルギー庁によると、日本の総発電量に占める原子力発電の比率は、震災前の2010年12月に32%だったのが、震災後の2012年12月は2%まで減少した。今はどうなっているのかは分からないが、安倍政権は「原発の再稼働を進める」と言っているから、まあシェア3割復帰が当面の目標なのだろう。

一方で「原発ゼロ」を目指すべきだと言う人は多数派のようだ。日共が応援している「首都圏反原発連合」はこうアピールしている。

<原発ゼロを望む国民の声は圧倒的多数であり、もはや原発を残す理由は何ひとつありません。それにもかかわらず政府は「原発の活用」を掲げ、原発再稼働と輸出に躍起になり、まるで福島の事故などなかったかのように振る舞っています。私たちはこうした政府の再稼働姿勢に真っ向から反対します>

「戦争ゼロ」にも皆賛成だろうが、理想と現実は違うもので、「原発ゼロ」を目指すのなら電力をどう確保するのかという代案を提示すべきなのに、彼らは基本的に「代案ゼロ」である。

太陽光発電が有力だという人もいるが、「太陽光発電の設置容量は増加しているが、発電量には2007年時点ではほとんど寄与していない」(環境省)。事情は今も同じだろう。

冷静に考えれば、現在と同じような低廉・便利な電化生活をしたければ原発を活用するしかないし、それが嫌だというのなら生活の質を落とさなければならない。30%節電すれば原発は不要になるだろうが、原発ゼロを主張する人で30%節電している人はゼロだろうから、主張していることと行為が矛盾している。

昨年の原発事故による年間死傷者はゼロだが、交通事故によるそれは、30日以内死者数5237人、負傷者数82万5396人、合わせて83万人である。それなら「原発ゼロ」を言う前に「車ゼロ」と大いに主張すべきなのに誰も言わない。圧倒的多数が便利なのだから少数の犠牲はやむを得ないと思っているのだ。これでは政治マターにならない。

つまりは「原発ゼロ」は“ためにする”主張であり、責任ある言論とはとても言えない、ただの妄言である。かつて反徳川勢力が「攘夷断行」を迫り倒幕した例にならい、自民党政権に無理難題をふっかけて倒閣し、あわよくば容共左派の政権を再び作りたいというのが本音である。民主党政権の失敗、社民党の凋落に懲りてはいない。

こうした政治マターに騒動師は群がるから、辻元清美も当然名乗りを上げる。ブログにこう書いている。

<「脱原発ロードマップの会」で事務局長を務めてこられた平岡秀夫さんが無所属で立候補されました。平岡さんは原発ゼロ社会の実現になくてはならない存在です。ぜひ平岡さんをもう一度国会へ!>(4月10日)

2004年4月にイラクで反米武装勢力の“人質”となった「イラク三馬鹿」の一人、高遠菜穂子も健在で、「脱原発にシフトしたドイツへ福島の高校生を派遣します」(7月22日)と資金を募っていた。

反日教祖の大江健三郎も「さようなら原発集会」を呼び掛けて大いにアジったものである。

原発事故の影響は死傷者ゼロとはいえすこぶる大きい。未だに避難生活を強いられている人はとても辛いだろう。小生は多少の寄付をしたくらいで、「避難先として我が家を提供する」などの具体的な支援をする気はない。被災者と会ったところで「お気の毒です、ご不自由でしょうが頑張ってください」と慰め励ますことしかできない。

小生ができないことを国、自治体は一生懸命にやってくれているだろうが、被災者の不運のすべてを解消することはできない。最終的には本人が踏ん張って生活を再建するしかない。不運は誰も避けられず、嘆いていたところでどうしようもない。

忘れもしない昭和33年夏、台風で多摩川の支流が氾濫し、わが家は床上浸水になり、7歳の小生は避難する際に溺れた。夜が明けていたので助けられたが、夜中だったら行方不明となり死んでいたろう。不運ながらも九死に一生を得た。

町の記録には「駅前から橋までの商店街は胸まで増水し、全家屋とも床上浸水」とある。わが家は建物は残っていたが、ほとんどすべてを失い、母は泣いていた。救援物資は毛布1枚だった。父母は必死で生活を再建した。洪水を免れた隣の町内の悪童は「ざまあみろ」と喜んでいた。

この世に悪童、悪人がいるように、人災も天災もあり、当たり前のことながら100%の安全はなく、運が悪ければ被害者になる、被災する。そこから立ち上がるのは基本的かつ最終的に自分自身の努力である。「原発ゼロ」「憲法九条」と唱えていても安全は保障されない、国会デモの帰りに事故に遭うかもしれない。万全の対策をとっていても想定外のことは起きる、人生はそういうものだ。

科学技術発展の恩恵を受けながら、これはOK、これはNOと仕分けすることはできやしない。温暖化が心配なら火力発電も自動車もゼロにすべきで、放射能が嫌ならレントゲンや放射線治療も拒否すべきだろう。核を否定するのなら米軍の寄港や駐留も否定することになる。それなら勝手に「原発ゼロ村」を作って原始時代の生活をするがいい。(2013/08/10)

<「頂門の一針」から転載>
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック