2013年08月23日

◆本土決戦を回避した昭和天皇の御聖断

加瀬 英明

 
暑い8月が巡ってくると、先の大戦で日本が敗れたことを思い出す。

私は国民(小)学校3年生だった。疎開先の長野県で8月15日を迎えた。母が泣きながら、「負けたのよ。頑張って、日本をもう一度、立派な国にしてね」といったので驚いたが、敗戦の意味を理解できなかった。

私は大学時代から売文によって、収入を得るようになった。敗戦後も、両親から日本が世界一の国であることを教えられたから、軍国少年の誇りを失うことなく育った。

私はあの戦争になぜ敗れたのか関心をもって、大戦中に政府、軍の中枢にあった人々をたずねて、回想してもらった。終戦時に大本営参謀だった稲葉正夫中佐が、「本土決戦を戦わなかったから、日本がこのように堕落した」と憤ったのを、忘れられない。

私は37歳だったが、昭和49(1974)年から翌年にかけて、『週刊新潮』に昭和20年元日から、マッカーサー解任までを取材したノンフィクションを、50週にわたって連載した。

終戦の御聖断が下った、8月9日深夜から未明にかけた、御前会議について書いた時には、目頭に涙がこみあげた。

深夜の御前会議では、東郷外相、阿南陸相、平沼枢密院議長、米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の順で、意見を開陳した。東郷、平沼、米内がポツダム宣言受諾を、3人の将官が焦土決戦を主張した。

鈴木老首相が意見が3対3に分かれたことから、「まことに畏れ多いことではございますが、ここで天皇陛下の思召しをおうかがいして、会議の結論といたしたく存じます」といった。御聖断が下ると、陛下をはじめ列席した全員が、とめどなく溢れる涙を拭った。

今年5月に、JR東海の葛西敬之会長が産経新聞に、「原爆が投下されてなお、阿南惟幾陸相は本土決戦に固執した。自らが敗戦の説明責任を負うのを避けるためだった。最後に無条件降伏を決定したのは昭和天皇の聖断であり、彼は自らの果たすべき説明責任を天皇に押し付けた」と、寄稿されていた。

私は日頃から葛西会長の高見に敬服しているが、もし、あの夜の廟議(びょうぎ)が3対3に割れずに、ポツダム宣言を受諾することが決まったとしたら、御聖断が下されることがなく、陸軍が反乱して本土決戦がたたかわれたにちがいない。今日の日本がなかったはずである。

あの夜の廟議が3対3となったことは、天祐だったとしかいえない。

マッカーサーが回想録に、「一つの国、一つの国民が終戦時の日本人ほど徹底的に屈服したことは、歴史上に前例をみない」と、驚愕している。

昭和20年8月までの日本には、「聖なるもの」があった。だからこそ、「一億総玉砕」を呼号していた軍も、鉾をおさめた。

中国が傍若無人に振る舞うようになったのに対して、国防力の強化が求められるようになっている。憲法改正の声が高まっている。

だが、今日の日本から、どこを探しても、「聖なるもの」がなくなってしまった。アメリカや、イギリスをはじめとする諸国には、アメリカの建国精神や、イギリス王室といったように、そのために国民が生命を捧げる「聖なるもの」がある。

日本はアメリカの占領政策によって、聖なるものをいっさい否定して、今日まで至っている。それで、国を守れるものだろうか。

<「頂門の一針」から転載>

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