2013年08月26日

◆8月15日後、何故軍政布告は止まったか

西村 眞悟


如何にして8月15日に漕ぎ着けたのか。その任を果たした人物のことに触れたい。

それは、鈴木貫太郎(慶応3日泉州堺久世地区生まれ、昭和23年4月17日没)である。昭和20年4月7日、鈴木貫太郎77歳は「江戸時代に生まれた総理」となる。

「老人でございますから」と固辞する鈴木に、陛下が、「もはや卿しかいないのだ」と言われた。

皇太后も、陛下の父親と思って引き受けて欲しい、と言われた。長年侍従長を務めた鈴木の妻は、陛下の乳母であり、陛下は鈴木の妻を母のように慕っておられた。

この陛下の言われた「もはや卿しかいない」という言葉の意味は、戦を収めること、つまり終戦に漕ぎ着けることができるのは鈴木しかいないという意味である。この時、戦を収めることほどの困難はなかったのだ。
 
さて、天は鈴木に、昭和20年8月15日の為に命を与えてきた。鈴木は、幼い頃、暴走する馬の足の下に倒れた。しかし死ななかった。それを観ていた人は、鈴木の運の強さに驚いた。

海軍士官となった鈴木は、水雷艇艇長(日清戦争)そして駆逐艦司令(日露戦争)となって、それぞれの海戦で、敵艦に機銃が届く至近距離まで肉薄して魚雷を放つという命知らずの必殺の戦法をとって敵戦艦数隻を撃沈する殊勲をあげた。つまり、特攻作戦である。生きているのが不思議といわれた。部下は彼のことを鬼貫太郎、鬼貫と呼んだ。

昭和11年2月26日未明、侍従長であった鈴木は、安藤輝三大尉の率いる歩兵第三聯隊の兵に襲われ、頭部、胸そして大腿に銃弾をうけて昏倒した。

トドメをさそうとする安藤大尉に、鈴木の妻が「おやめください。老人ですからトドメはささないでください。どうしてもというなら私がトドメをさします」と言って止めた。

安藤大尉は、鈴木に敬礼して退出した。その後妻が、意識のなくなった鈴木の耳元で、「あなた、しっかりしなさい」と叫ぶと、鈴木は目を開け蘇生した。

昭和23年に鈴木は死ぬが、彼を火葬したあとに遺骨と共に2・26事件の時に撃ち込まれた銃弾があった。

昭和20年4月7日、小磯内閣総辞職をうけて鈴木は総理大臣に就任した。4月12日、アメリカ大統領ルーズベルトが死去する。

鈴木は直ちに、優秀な戦争指導者を失ったアメリカ国民に対して心より哀悼の意を表するとのメッセージを送信した。同時期、ヒットラーがルーズベルトを罵るメッセージをアメリカに送信した。

アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、「東洋の国日本に騎士道が残っている」との賞賛のコメントを発した。

翌4月13日、東京は3月10日に続く大空襲をうけた。トーマス・マンは、ドイツと共にアメリカにも騎士道などないと思い知ったであろう。4月30日、ヒットラー自殺。

我々日本国民は、そして、アメリカ国民も、日本国総理大臣鈴木貫太郎が、都市住民の無差別殺戮という国際法無視の残虐な敵襲の中においても、その敵国のルーズベルトという大統領の死に対して武士道の精神に基づきアメリカ国民に対して哀悼の意を表したことを忘れてはならない。

8月14日、御前会議に於いてポツダム宣言受諾決定。同日、玉音を録音。戦争継続派軍人、録音版奪取失敗、クーデター派自決(宮城事件)。

8月15日、未明、阿南陸軍大臣自決。正午、玉音放送。鈴木内閣総辞職。

以上のように、鈴木貫太郎は役目を果たした。陸海軍は抗戦を止め、武装を解除していくが、次の戦いを担ったのは、武器を持たない隻脚の外交官重光葵(しげみつ まもる)である。
 
鈴木内閣の後を受けて、8月17日、東久邇宮内閣が成立した。この東久邇宮内閣が担う降伏文書調印の全権が、外務大臣に就任した重光葵と陸軍大将の梅津美治郎であった。

8月28日、重光は夜行列車に乗って伊勢に赴き、伊勢神宮に参拝する。

我が国を 造りましたる 大神に 心をこめて 我は祈りぬ
8月30日、マッカーサー厚木に到着9月2日、午前6時45分、重光と梅津ら横浜桟橋から米駆逐艦に乗り戦艦ミズーリ号に向かう。
 
ミズーリ号には大勢の新聞記者とカメラマンが待ちかまえ、シンガポールで山下奉文中将に降伏した英軍のアーサー・パーシバルやフィリピンのバターン半島で本間雅晴中将に降伏した米軍のジョナサン・ウェインライト等も待っていた。

大勢の将兵が鈴なりになって隻脚に義足を付けてタラップを登る重光等を見ていた。
 
つまり、マッカーサーは、日本側全権を晒し者にして勝者としての優位性を効果的に示そうと演出したのである。旅順の敵将降伏に際して、敗者の心情に配慮して各国のカメラマンの取材を許さなかった乃木希典大将の示した武士道精神の奥ゆかしさと、マッカーサーは正反対の人物であった。
 
定刻9時にマッカーサーはミズーリ号の甲板に姿を現す。礼装ではなく簡易な夏服。重光はシルクハットにモーニング。

9月3日、マッカ−サー、GHQは、日本に軍政を実施しようとする。重光は、敢然とGHQ本部に乗り込みマッカーサーと直談判した。

ドイツは政府が崩壊した。従って軍政は致し方ない。しかし、日本政府は壊滅していない、機能している。

重光は、「ポツダム宣言は、日本政府の存在、即ち日本の主権の存在を前提にしている。従って軍政を敷くことはポツダム宣言を逸脱するものである」とマッカーサーに迫った。

この重光の主張に対して、遂にマッカーサーは、軍政の布告を取り下げる、と答えたのだ。このようにして、昭和20年9月以降も、我が国政府は機能し続ける。
 
仮に軍政が敷かれておれば、日本国政府への国民の信頼はなくなり、日本人は植民地の民の如く白人の異民族統治のお家芸である「分割統治」(デバイド アンド コントロール)のもとで「異民族の支配者」に媚びへつらって恩恵を受けようとせざるを得なかったであろう。日本人は徹底的に植民地の被支配民となったであろう。

それは、イギリス軍に支配された体験を綴った「アーロン収容所」(会田雄次著)に書かれたおぞましい世界である。
 
なお、分割統治とは、例えば少数者に特権を与えて多数者を支配させることである。このように、被支配者を分断して利害が相反する構造にしておけば、両者が一致団結して抵抗するという面倒なことは起こらない。これが白人が学んだ異民族支配の方策である。
 
イギリスは、ビルマで大多数のビルマ族を少数民族に支配させた。独立したビルマがミャンマーになった今も少数民族との武力衝突が続いているのは、イギリスのこの分割統治という植民地支配に原因がある。

また、イギリスやオランダは、東南アジアでは、少数の華僑に経済を支配させて大多数の現地民を支配した。この華僑の経済的特権構造は、今もこの地域の政情不安の原因になっている。
 
この白人のアジア統治のやり口を観て、我が国での「軍政」が仮に実施されたらどうなったかを考えるならば、あり得べきは、少数者の朝鮮人に特権を与えて多数者の日本人を支配させるやり方である。

事実、敗戦直後は、朝鮮人が「敗戦国民」の日本人に対してGHQの威光を背景にかなり威張っていたと、その当時を知る人から聞いた。マッカーサーは、軍政を敷こうとして、朝鮮人と日本人の分割統治方式を頭に描いていたのかもしれない。

この我が国の屈辱であり、民族の本性を歪めるおぞましい異民族による軍政。これを断固として止めさせたのが重光葵である。

それは終戦直後、戦時中に鈴木貫太郎の敵対勢力つまり徹底抗戦を強硬に主張していた者ほど、マッカーサーの力にひれ伏して占領軍様に従順な忠犬の如くなっていた時期である。

この時、敢然とマッカーサーに抗議して軍政布告を取り止めさせた重光葵は、やはり真の外交官、つまり、礼服を着た戦士であった。

以上、本日は、我が郷里の堺に生まれた鬼貫こと鈴木貫太郎と重光葵が決死の思いで何をしたのかを書いた。これからも、8月15日以降の戦いを忘れないために、「8月15日の後」を時々書いていきたい。

それは、日本と日本人の戦前と戦後の連続性を自覚すること、つまり、日本を取り戻すことに繋がっていくからである。2013.08.25

<「頂門の一針」から転載>
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