2007年03月31日

◆雄大な種族保存絵巻


                      渡部亮次郎

昭和の初めごろ、東北の農家で使役の馬といえば南部(岩手)駒が最高とされた。しかし、南部馬はじめ三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒など、地域によって沢山いた亜種は絶滅してしまった。

うちの親父は農業のほかに八郎潟干拓運動などで多忙な人だったし、長男は農業大嫌い。次男の私は幼すぎる。かと言って作男を雇おうにも働ける男はすべて戦争に狩り出されておりゃしない。

手入れの悪い馬は「伝貧(でんぴん)」と呼ぶ病気、人間の肺結核みたいなのにかかって死ぬ。運が悪ければ陸軍に「軍馬」として徴用される。そこで親父は断固として馬飼いを止め、牛に切り替えた。牛は病気をしないばかりか、夜道に強い能力があった。

尤も、ある牛は私の右足の親指を踏みつけて、生爪を剥いだが・・・あれは痛かった。どうやって帰宅したか未だに思い出せない。とにかく馬は貧しい農家に敬遠された。

戦後は農業の機械化、農薬の普及、トラックの普及で、農村から馬は1頭たりと居なくなった。南部馬はじめ三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒など、地域によって沢山いた亜種の絶滅の背景はこれなのだ。同様に牛も居なくなった。

24歳の夏、NHKの仙台から岩手県の県庁所在地盛岡放送局に転勤になった。まだ高速道路はおろか新幹線もない時代。県議会で知事が観光に力を入れると表明しても、何の意味か誰も理解できなかった。誰もいないこと、昔のままの自然が観光資源?そんな馬鹿な、と言った時代。

今では移転したか無くなってしまったかもしれないが、盛岡市郊外に岩手県の施設として県種畜牧場というのがあって、南部駒は絶滅したとはいえ、牛馬の種の保存事業を続けていた。

一方、岩手県政記者クラブは毎年春に総会(宴会)を開くが、ある年、会場は種畜牧場、料理は飼育している羊1頭をつぶしてのジンギスカン鍋、アトラクションは競走馬の種付け見学ということにした。県庁は木造2階建て。のどかな時代だったのである。記者は十余人。


昔とはいえ、子供に農耕馬の種付けなど大人が見せる事はない。また農耕馬は牡だと気が荒くて扱いにくいというので、どこかで去勢されることが多かった。だから種付けと聴いて珍しかった。

北半球の種付けは原則として春に行われる。野生の馬も春らしい。そこで記者会の総会も5月の連休明けのころ、快晴の日にセットされた。

よく晴れ上がった午後、広大な岩手山麓の牧草地に降り立った。落葉松(からまつ)林の奥に、その場面はあった。衝立があって、栗毛の雌馬が尻を向け、こちら側に置かれた牡馬がその尻を舐めたり噛んだり。

自身のシンボルは長さ50センチ、直径10センチぐらいに膨らんで、自身の腹を叩いている。叩きながら噛んでいる。突然、雌馬がバケツ1杯ぐらいの白い液体を排出した。そこで雌馬は立ち去った。準備OKとなったのだ。

腹を打っていた牡馬は目の前真っ暗、茫然自失。「衝立があるから、今回も怪しいとは思っていたんだ」といわんばかり。がっくりうなだれるようにして厩舎につれて行かれた。これが「当て馬」の真実の姿。ノンキャリア。冗談にも「当て馬」を文章に使うまい。

雄大な岩手山がくっきりと見える。火山灰のため、一帯に広がる平野は死の広がりである。土壌が酸性だから育つ農作物は牧草ぐらい。
農家は酸性土にせっせと石灰を撒くことから始めなければならないから大変だ。3人の東京の男で小岩井農場を作れたぐらい土地は安かった。

そんな事はともかく「現場」へ急ぐ。さっきの雌馬はもうベッドなぬ青天井の指定場所で尾をたくし上げられる等、所定の受け入れ態勢をとらされて待っている。

と、何頭か入れられている種馬の厩舎から1頭の栗毛が連れられて来た。午前中に1度「仕事」を果たしたとかで、心なしか、厭そうである。

それでも雌馬を発見。初対面のはずが、見る見るその気になって後ろへ周り、無言のうちに前足を挙げて雌馬の背に跨った。隆々60センチ、直径10センチ。うまく挿入できない。厩務員が腹の下にくぐり、担ぐようにして隆々をあそこにあてがった。

大きな前歯をむき出す種馬、無言の雌馬。生まれて初めて見る種族保存の黙々たるピストンの行い。およそ3分。大自然の中の大自然の絵巻は突然に終わった。力なく垂れた一物は四角い桶の消毒薬を掛けられて引き揚げて行った。

余計な事ながら、昔いとヤンゴトナキ東京のご婦人が希望して見学しながら途中でしゃがんでしまったとか、通りがかりのおばさんが、買ってきた豆腐を気がついたら握りつぶしてしまっていたとか、県庁職員が面白おかしく経験を語った話だ。

南部駒も絶滅し、農耕馬も使わなくなった今、日本では競走馬のそれしか展開されなくなっているようだから、普通の人がこのような絵巻を見る事は殆ど不可能になった。

日本軽種馬協会(にほんけいしゅばきょうかい、略称JBBA)は、 種牡馬の繋養やセリ市場の支援など軽種馬の生産にかかわる一連の業務を主な業務とする社団法人である。監督官庁は農林水産省生産局競馬監督課。

2006年時点での会長は元自民党総裁にして衆議院議長河野洋平、副理事長に青森県会議員山内正孝、日高軽種馬農協組合長の荒木正博、元JRA元常務理事の今原照之。そのほか理事には吉田照哉、鈴木宗男などが名を連ねる。

先にディープインパクトが突然の引退、種馬になるとの発表。それをテレビで話題にしたタレントが「羨ましい」と女子アナに語りかけたのはセクハラだと騒がれた。種付けをポルノだと勘違いしている方がおかしい。

成績優秀であるからといっても必ず良い産駒が生まれるということは無い。競走馬時代は大活躍したオグリキャップが引退後種牡馬となった。スターホースということで当時は話題となり種付けの申し込み数も多かったが、産駒の成績が非常に悪く、近年は勝ち馬どころかその血を持つ馬ですら見ることは珍しい。

逆に全く成績の伴わなかった馬が種牡馬として大成することもある。日本では競走に出走することすら叶わなかったエイシンサンディが父サンデーサイレンスという血統から、高額なサンデーサイレンスを種付けできない生産者から請われ種牡馬となる。

その産駒であるミツアキサイレンスがダート交流重賞で活躍、エイシンテンダーが桜花賞トライアルのチューリップ賞を制覇するなどしている。

エイシンサンディのように血統だけで種牡馬になったような馬は、普通であれば種付けの申込み数はそこまで多くなく、毎年デビューする競走馬は数少ない。

ちなみに日本国内の種牡馬の総頭数は1991年には600頭を超えていたが、その後の景気低迷、さらには地方競馬におけるアラブレースの廃止縮小の影響を受け、2004年には320頭あまりにまで落ち込んでいる。2006・07・18 加筆2007・03・30

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