2007年04月03日

◆浅草は慌てなくていい


                       渡部亮次郎

浅草(あさくさ)の交通を支配してきた東武鉄道が、隣の墨田区押上と業平の間に新東京タワー610メートルを建てて新名所にしようとしている、浅草が見捨てられるのでは無いかと慌てている。

しかし、テレビから見捨てられてもしぶとく外国人を取り込んでいる浅草を見捨てることのできないのが江戸っ子であり、日本人なのでは無いか。生まれて初めて背広上下を父に買ってもらったのは浅草だった。浅草よ永遠なれ!だ。

浅草は、東京都台東区で、戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。

高度経済成長期以降は山手線沿線の新宿、池袋、渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲ったが、現在も江戸情緒を感じさせる観光地として賑わっている。

最大の失敗が大学の誘致を考えなかったことだ。若者が或る時から居なくなった。

「吾妻鏡」の1181年(養和1年)の条に浅草の名が見える。江戸時代から境内地が広く認められ、明暦の大火(明暦3年=1657年3月2から4日にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる)。

その後、遊郭や芝居町が広く移転してきて仲見世が発展し、見世物小屋などが進出して大娯楽街となる。明治後も映画館や演劇場が繁栄し、昭和初期の浅草オペラをはじめとした大衆文化の中心となっている。

古くから浅草寺(せんそうじ)の門前町として栄えていた。徳川家康が江戸を根拠地として大規模な城下町に改造していくと浅草もその一角を担うようになる。

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