2007年04月04日

◆おらゴム長と織田信長


                     渡部亮次郎

「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。
その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこ
か田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太
もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われてい
る。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、
バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・
ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受け
た淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードの
ある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や
演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブ
ルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブル
ーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがあ
る。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用している
という共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭
和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルー
ス」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」
は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしてい
る。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼
ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の
「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、
B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of leepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバル
は第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジ
ュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂
歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが
形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。参考:ウィキペディア及び誰か昭和を思わざる 
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html
2007・4・02


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック