白井繁夫
前回、海住山寺・中興の祖「解脱上人貞慶(じょうけい)が承元二年(1208)、笠置寺から移住して、戒律を重視する観音霊場の堂宇を再興して、慈心房(じしんぼう)覚真(かくしん)とともに、律宗教義の確立を目指す話題に触れました。
その際、専修念仏(せんじゅねんぶつ)を説く法然上人と、その時代の説明が不十分だった気がしますので、その点について改めて書き足したいと思います。
渦中の法然上人は、「浄土宗の開祖」(長承二年(1133)〜建暦二年(1212))ですが、比叡山で天台宗を学び、その後、承安五年(1175)阿弥陀仏の誓いである念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば往生できると説く、専修念仏の教団を興しました。
この教団へ、後に浄土真宗の宗祖になる「親鸞上人」も門弟となりました。ところが、法然が率いる教団は既存仏教教団から弾圧され、特に、承元元年(1207)二月には、後鳥羽上皇の怒りにふれ、専修念仏の停止(ちょうじ)になったのです。
事もあろうに、法然の門弟4名死罪、法然と親鸞を含む中心的門弟7名が流罪に処せられました。『承元(じょうげん)の法難』と云われています。
法然の配流、滅後も法難に遭っています。『嘉禄(かろく)の法難(1227年)』の時は、法然上人の墳墓を破却し、比叡山では法然の「選択集」の焼却などがありました。天福(てんぶく)二年(1234)には、宣旨(せんじ)により、鎌倉幕府が専修念仏を禁止し、弾圧もしました。
このように平安末期から鎌倉時代に於いて専修念仏教団は弾圧されたのですが、既存の仏教教団(法相宗.華厳宗.律宗や天台宗など)は朝廷、幕府から支持を受けました。
このような時代でしたから、「貞慶と覚真」は、腐敗堕落した貴族仏教を退けて、釈尊に回帰する教義の戒律を重視し、仏舎利を崇拝する信仰の確立を目指したのです。
そこで本題に戻ります。「貞慶.覚真」は「海住山寺」に戻り、理念の象徴的建築物であった「国宝の五重塔」の話を進めて行きます。
「国宝の五重塔」は、「海住山寺」の本堂の南前方に建ち、金色の相輪を頂く丹塗り(にぬり)の総高17.1mと、現存する五重塔としては、「室生寺の塔」に次いで小さい塔です。
しかし、初重(初層)に吹放しの裳階(もこし)を持ち、初重内部は四天柱間に板扉を設けて厨子状の構えとし、心柱を初重の天井梁上に立てる方法の五重塔は、この塔が「日本で最も古い塔」です。(但し、三重塔なら、初層に心柱がない構造の塔は、承安三年(1171)の一乗寺(兵庫)の塔が現存しています。)
上の写真:海住山寺の(国宝)五重塔
現在の初重には阿弥陀如来座像を祀っていますが、もとは仏舎利を本尊として、舎利塔に納めて安置していたと云われています。
この塔に納められていた仏舎利は七粒です。「貞慶が後鳥羽上皇より拝領の二粒(一粒は東寺、あと一粒は唐招提寺)。残りの五粒は、覚真が貞慶の一周忌(健保二年:1214:2月3日)の五重塔完成供養に五粒を加えてこの塔に安置した。」と記されており、それに触れた覚真自筆の「覚真仏舎利安置状」が、「海住山寺」に保存されています。
この塔は建立年代が明確であり、建築技法や、類例のない内陣のつくり、初層の8枚の扉に8体の尊像が描かれている等々を持った鎌倉時代唯一の五重塔の遺構です。まさに、鎌倉初期の舎利信仰を物語っている貴重な建築物と言えます。
本堂の前の北側には(重文)「文殊堂」が建っています。(現在修理中のため内部は不明)。
柱間が正面三間(ま):7.3m、側面二間(ま):4.3m、四方に縁がつく寄棟造の小堂です。
この御堂の初期は経蔵でしたのが、後に文殊像を安置したのだと云われています。
「海住山寺の本堂」は、かつては薬師堂とも呼ばれていました。現在の建物は明治17年に建てられた比較的に新しい御堂です。
本堂の厨子内に安置されている「木造十一面観音立像(重文)」は1.9mの高さが有ります。平安初期の作風がみられ、おおらかで安定感のある一木彫成像です。堂内がやや薄暗いためか、この観音菩薩を拝観していると、穏やかな安らぎを私達に与えて呉れるような気持ちになりました。
堂内内陣の左右に壁画が有り、左の壁画は補陀落山曼荼羅で観音が諸菩薩に囲まれ、雲に乗って来迎する様子と、これを迎えに海浜より舟をだす僧が描かれており、右の壁画は那智の滝と青岸渡寺が描かれています。
「海住山寺」の絵画では、鎌倉時代の法華経曼陀羅図(重文)は京都国立博物館に、仏像では檀像(香木の像)の高さが45.6cmの十一面観音立像(重文)は、奈良国立博物館にそれぞれ寄託されています。
「海住山寺」は、室町時代の14〜15世紀にかけて、鎮守の春日社や鐘楼など多数造営され、嘉吉元年(1441)の『興福寺官務牒疏』には「一山は十三ヶ寺、四十二坊」と記されています。
また、十六世紀の『海住山寺雑記録』にも釈迦堂、蓮花寺、宝篋院(現在の本坊)、宝蔵院や子院などが数多く記されています。
ところが、十六世紀末の「秀吉による検地」は寺社の勢力を削ぐ目的で行われ、何と海住山寺の所領も大部分が削減されたのです。それ以来、徐々に衰退して行き、江戸時代の天明七年(1787)の『都名所図会』によると、境内は現在の状態とあまり変わりが有りません。
明治維新後、海住山寺は興福寺から離れ、真言宗の小野隋心院に属し、その後、京都智積院(ちしゃくいん)の末寺となり、今日に至っています。
太閤検知で無くなった海住山寺の寺領や数多くのさびれた坊の跡は、茶畑や蜜柑畑になり、現在は何事もなかった様に、静かな田園風景に溶け込んでいました。
次回は、「木津川」を挟んで海住山寺の(対方)南側、大和と山城の国境、山間の当尾の里にある「浄瑠璃寺」を訪ねる予定です。
参考資料:日本の古寺美術 18 (海住山寺)保育社 肥田路美著
海住山寺 中央公論美術出版 工藤圭章著
大和の古寺 七 岩波書店 (1981)