平井 修一
明朝はなぜ亡びたのか。
<明国は党派の政争、腐敗で初代皇帝時代の軍隊はもはや存在せず、裏切りと逃走を重ねて、原始的な満洲族の前には勝利を握ることは不可能であった。
豊臣秀吉の朝鮮侵攻、官僚腐敗、武官の背反、流賊軍団の大乱により、毎年軍事費は膨張して民心は離反した。現代のアメリカを見ても、戦争ほど高価なものはない>(古野直也「張家三代の興亡」)
「張家三代」というのは満洲に君臨した張作霖とその父の張孝文、息子の張学良のことである。著者の古野は1924年生まれ、陸軍士官学校卒で特別攻撃隊「神鷲124隊」隊長を務めた人である。敗戦の1945年には21歳で、戦時中の時代の空気を体験している。戦後は復員省史実部で戦史を研究したり東京裁判にかかわったりした。
すごいのは1998年に97歳の張学良を取材していることで、張学良を50年以上幽閉した蒋介石亡きあとに彼を解放した李登輝とも懇意にしており、この人脈で張学良と会えたのである。
1934年からの64年間で張学良と個人で会見した日本人は古谷ともう一人(学者)だけで、日本陸軍の将校としては古谷だけのようだ。容共左派的反日屋と違って支那と漢人のことを肌で知っており、信用できる人だと思う。
さて、満族は清朝を建てて漢族を支配するのだが、どうなったのか。古谷の言葉をつづけよう。
<明末、清初の動乱を見て中国人の性質を考えるに、まず拝金、嘘は日常の習慣である。自己中心主義、血縁主義、背信、怨恨性、猜疑心をもたねば生きることは難しい。現代の中国人はすべてこの性質を身につけている。
満族は人口が少ないから一握りの軍団で漢人の海であった中国本土を統治するのであるから、遠慮して柔軟な政治をもって人民の離反を防ぎ、慰撫寛大を旨とせざるを得なかった。
満洲から(長城を越えて)入関した満人たちは、あっという間に華人の悪習に染まり、愛銭蓄財、収賄贈賄、好色淫蕩となり、伝統的な尚武正直な気質を失い、漢人との通婚により消滅しかけている。八旗軍団の精兵は形骸のみとなり、戦闘力を失った。
清朝は満族を保護し土地を下賜したが、売ったり金貸しに取られたりして社会の底辺に沈む者も多かった。少数民族の悲哀であろう。漢人とともに暮らすと早くも民族団結の基礎である満洲語を忘れ始めた。
満族にはもともと「忠」という思想はなく「孝」のみであった。漢人には忠はあったが名称だけであったから、清朝皇帝は忠誠心のある文武官をもつことは不可能であった。金銀の魅力で私腹を肥やすことを認める統御法しかなかった。これは今に至るまで尾を引いている。金銀は危険な万能薬である>
今の中共では汚職腐敗のニュースがどっさりと報道されているが、これは漢人のDNAとしか言いようがない。清朝五代の世宗は綱紀粛正で恐怖政治を行ったが、地方長官のなかには税金の10%を私腹していた者もいた。皇帝が求める金を納めればあとは自分の懐に入れることができたのだ。
1795年頃に皇帝の覚えめでたく国庫を預かっていた大臣が失脚した時に没収された財産は8億両、今の日本円で言うと17兆円にも達していたようだ。
(1795年当時の日本の貨幣でいくらになるのかは分からないが、その100年後、1895/明治28年の日清講和条約で清が払った賠償金は3億円である。当時の巡査の初任給は9円、今の20万円とすれば、6兆6000億円ほど。8億両(1895年当時なら11億円ほど)は今の17兆円ほどになるか。いずれにしても天文学的な汚職額だ)
こうした風習に満人も染まっていった。賄賂万能、汚職腐敗は日常茶飯事、軍隊も弱体化していき、1840年のアヘン戦争を皮切りに、アロー戦争、英仏の北京占領と皇帝の西安への逃亡、仏軍の安南侵攻、清仏戦争、日清戦争、義和団の乱など相次ぐ戦争、騒乱での敗戦により賠償金支払いも重なった。
国内では漢民族の孫文らが清朝打倒運動を広げ、まさに内憂外患であり、清朝は求心力を急速に失い、1912年、中華民国が建国され、ここに268年にわたる満州族の王朝、大清帝国は崩壊した。
清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀(ふぎ)は名前だけの皇帝として紫禁城(王宮)に暮らすことになった。後の満洲国皇帝である。(2013/10/27)
<「頂門の一針」から転載>