2013年10月31日

◆「満洲国」建国譚(4)

平井 修一


東京都と小生の暮らす神奈川県は多摩川が境になっている。北が東京、南が神奈川だ。広域暴力団が東京まで進出してきたら、川を渡って神奈川まで押し寄せかねない。神奈川県民としては「暴力団の東京進出断固阻止」と結束し、彼らを北の埼玉県、さらに北の栃木県あたりまで押し返すよう努めるだろう。

日清戦争(1894)も日露戦争(1904)も暴力団・ロシアに対する日本の怖れがベースにある。上記の寓話に当てはめれば、東京=朝鮮、多摩川=日本海、神奈川=日本、埼玉=満洲、栃木=シベリアになる。

ロシアは北欧、東欧、中近東に領土を広げ、次には東へ東へと進み、さらには南を目指した。20世紀のはじめにロシアの領土は世界の陸地の6分の1にあたり、英国の規模に匹敵した。陸軍は平時110万人、戦時450万人でヨーロッパ最大、海軍力は世界第3位という大帝国だった。

日清戦争で朝鮮は清から離脱したものの、三国干渉後に満洲を勢力下においたロシアは朝鮮半島にもつ利権を手がかりに南下政策(朝鮮支配)をとりつつあった。これを阻止しなければ日本はロシアに飲み込まれるという恐怖はとても大きかったのだ。

日露戦争に辛勝した日本は講和条約で南満洲にもつロシアの鉄道権益や、その付属地の炭鉱の租借権、関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権などを譲渡された。こうして日本の満洲進出が始まっていく。

<日本は満洲の権益を守るために(満洲を押さえていた軍閥)張作霖の軍隊を育成する。軍事顧問団を置き、教育、訓練を行い、日本の陸軍士官学校へ留学の便宜を与え、武器弾薬も支援した。

張作霖は陸軍大将・寺内正毅と会見した時は腰が低く、「閣下が私に命ぜられることには喜んで従います。日本が満洲にもつ権益は私がいる限り安全です」と親日ぶりを強調して日本の指示をとりつけ、自分を売り込んでいる>(古野直也「張家三代の興亡」)

ロシアが手を引いた後は日本が南満州鉄道(満鉄)などを作って満洲開拓を進めていくが、ロシア時代から本格化した漢人の流入はさらに勢いを増した。

<日清戦争の頃に満洲の人口は5、600万で、そのうちには満洲人や蒙古人が300万以上もいたろうから、支那人はせいぜい2、300万のものだった。それが今(1938)では3000万というのだから、その雪崩れこみ方がいかにもの凄いものだったか分かるだろう。

クロパトキンという日露戦争のロシア総司令官は言ったことがある。「ロシアは満洲に莫大な資金を投じたが、そのお陰で利益をこうむったものはロシア人でなくて支那人だった。ロシアの金3億ルーブルは支那人の手に落ちて、そのために彼らは永久に満洲の地に土着できるようになった」と。

その事実は日本の場合でも同じだったのだ>(長與善郎「少年満洲読本」1938年)

長與は作家。この本によると当時の満洲の人口は3400万ほどで、9割が支那人、1割足らずが日本人、満洲人、蒙古人、朝鮮人、それと10万人の白系ロシア人などだった。満洲には耕作地がある、鉄道工事、鉱山採掘、工場などの仕事もある、関内と違って天災や戦乱も少ないから、支那人は満洲を目指したのだ。

<その支那民衆は繁盛して富んでいったかというと、そうはいかなかった。支那独特の厄介な代物、軍閥という地方支配者があり、これが武力づくで滅茶苦茶な政治をし、紙幣を乱発したり大豆を買い占めたり、20年先までの税を取りたてたり、広くて肥沃な耕作地を独占するなど、人民の膏血を搾り取るからだ。満洲も支那伝来の悪弊を免れなかった>(同)

親日家を装っていた張作霖はやがて勢力をつけていくと排日・反日を強めていった。

<張作霖は支那の中央にまで勢力をもつようになると、今度は満洲での日本の勢力が邪魔になり、日本がロシアから受け継いで支那から得ている権益を踏みにじり奪い返しにかかった。例えば満鉄に並行する鉄道を数本も敷いて、その運賃を安くして満鉄の営業をつぶしにかかるとかいろいろ邪魔をした>(「少年満洲読本」)

<日本人は満鉄付属地内だけが自由で、一歩外へ出ればあらゆる制限、禁止令、土地売買厳禁、担保無効が待っていて営業活動は不可能になりつつあった>(「張家三代の興亡」)

しかし、日本政府は有効な手立てをとることもなく、依然として張作霖を支持していた。

ソ連の支援を受けていた孫文の遺産を引き継ぐように広東に蒋介石を中心とした国民党・国民政府が組織され、1926年から全国統一を目指す北伐が開始された。各地の軍閥の一部も帰順し、1928年6月、北伐軍は北京にまで進出していた張作霖に迫る。

日本政府は張作霖に北京撤退を忠告し、6月3日、各国外交団と日本軍儀仗兵の見送りを受けながら、張作霖は特別列車、妾の乗る一等列車群、金銀財宝や家具調度品を満載した列車、延べ数百両を従えて満洲の奉天を目指して出発した。

<奉天駅の少し手前、満鉄線とクロスする地点で、関東軍高級参謀の河本大作の手によって6月5日5時23分、張作霖は爆殺された。53歳でこの満洲大元帥は死んだ。(日本の)支那駐屯軍はこの事件にはまったく関係していなかった。

張作霖の死を一番喜んだのは蒋介石である。これで(張作霖の)東北軍が満洲から関内に進出して暴れる心配がなくなったのだ。息子の張学良は28歳の青年だから頭を撫でておとなしくするのは簡単なことだと考えたと思われる。

かくして蒋介石は満洲に工作員を入れて反日侮日を強化し、国民党政府の栄職就任という餌で若い張学良の誘惑を始めている。その終点が易幟(国民政府の旗を翻す)であって、これは日本と訣別して中国本土と合体したことを示す>(「張家三代の興亡」)

父のあとを継いだ張学良が12月に降伏、蒋介石の北伐は完了し、ここに一応の全国統一を果たしたのであった。(2013/10/30)

<「頂門の一針」から転載>

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