2013年11月01日

◆「満洲国」建国譚(5)

平井 修一


このシリーズも5回になった。忙しい読者を煩わせたくないので、早めに終えたいと思うのだが、小生に基礎知識がないために勉強、検証しながらの作業で、GHQの洗脳番組「真相はこうだ」のように「あれは日本の侵略だ、悪辣非道な日本の軍部が悪い」と簡単に片づけられないから、なかなか端折ることができないでいる。

1928年6月5日に張作霖を爆殺した関東軍高級参謀の河本大作については書かないつもりだったが、このテロ事件は当時満洲に移住した邦人(朝鮮系を含めた日本人)が張作霖から受けていた強烈な非道、無道、圧迫、それに対して何の手立ても打てない日本政府への怒りを代弁したのではないかと思い、やはりこれは検証すべきだろうと、今回は河本大作について報告したい。

幕末維新のテロ、暗殺で歴史を大きく動かしたのは水戸浪士らによる井伊大老殺害だったと言われている。張作霖爆殺もそれと同様の激震ではなかったか。

河本大作は1883年(明治16)−1955年(昭和30)。兵庫県の地主の子として生まれた。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36)11月に陸軍士官学校(第15期)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。陸士15期は乃木希典の次男保典(日露戦争で戦死)と同期である。狭き門の陸軍大学校(第26期)を1914年(大正3年)に卒業した。

張作霖爆殺事件当初から関東軍(日本の支那駐屯軍)の関与は噂されていたが、河本大佐が名乗り出て、その後の調査で彼が計画立案し、現場警備を担当していた東宮鉄男大尉、桐原貞寿工兵中尉らとともに実行したと判明した。

張作霖の暴政に対して義憤に駆られただろう河本は、しかし軍に迷惑をかけたくないと私的な同志のみで実行したのだろう。

当初「満洲某重大事件」と報じられた爆殺事件に際して田中義一総理、日本政府はどう対応したのか。

<第一報が田中首相に入った時、彼は朝食中であったが、箸を投げ捨てて「しまった」と洩らしたという。国会での追及に政府は「捜査中」と逃げた。田中首相は日露戦争で張作霖を助命し「張学良は子供のよう」とまで語っている人であった。満洲と中国を切り離して、蒋介石の中国統一とは別に、満州を張一家に支配させて日本が影響力を行使するというのが方針だっただけに、河本らの謀略には頭を抱えていた>(古野直也「張家三代
の興亡」)

広大な満洲の治安を確保するために日本は張作霖を利用し、張作霖も日本の後ろ盾を得て蒋介石らと対峙していた。持ちつ持たれつで、日本の指導部のなかには張作霖の暴政には目をつぶり、彼を支持する人々もいたのである。

支那は昔も今も賄賂の国で、裁判も出世も金次第である。赤い紙に金を包んで渡すので、これを紅包(ホンパオ)と言い、円滑に事を運ぶので機械の油、機油(キユ)とも言うそうだ。

古野によれば張作霖は日本人の政治顧問を2人抱えており、顧問の計画に従って思い切った金額の紅包を日本の政党、首相、陸相に贈り、親善と懐柔に勤めていた。関東軍司令官や関東州長官も対象だった。

張作霖にとっては満洲の3000万人から搾り取った金で、彼自身の懐が痛むわけではないし、国防費と考えれば安上がりなのだ。もらう方も、つき返して国際親善に傷がついてはいけないという大義名分もあったのだろう。スブズブの馴れ合いだった。

当初田中首相は、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張したが、陸軍の強い反対で果たせずに、軽い行政処分にとどまった。このことを野党から「満洲事件(張作霖爆殺事件)を村岡関東軍司令官に帰したことは厚顔無恥である」と糾弾された。

また昭和天皇にも「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と強く叱責され、勅勘をこうむったため田中は涙を流して恐懼し、翌1929年(昭和4年)7月に内閣総辞職した。

河本大佐は停職、待命、予備役編入となり、新たに招いた石原莞爾参謀に後事を託して満洲を去った。石原は後に板垣征四郎らと満州事変を断行、満洲国を設計施工した軍人として記憶されることになる。

「叙情的軍人」と古谷が形容した河本は、金に淡泊で、「満蒙問題解決のために死ぬことは最大の希望」と言っていたという。河本は当時の満洲の邦人からすれば義人であり、テロは義挙として喝采されたのではないか。

<張作霖爆殺事件に対する日本の上層部の対応を見ると、幼稚としかいえないほど程度が低いといわざるを得ない。当時の激しい空気と燃え上がる心情を「平和ボケ」の現在の視点で見てはいけないのだ。

国権、国益の維持には各国とも軍が熱心である。多くの先輩、同僚の軍人が血を流した土地は簡単に捨てることはできないのだ。関東軍が遼東半島と南満州に1万の兵力を維持していたのも、権益保護のために条約により国際的承認を得たもので、簡単に「侵略」とは言えないと私は考える>(同)

河本はその後は関東軍時代の伝手を用いて、1932年に南満州鉄道の理事、1934年には満州炭坑の理事長となった。張作霖事件の責任を一身に負ったことが関東軍に評価されたためだと言われる。1942年には国策会社山西産業の社長に就任、ロシア=ソ連軍の満洲侵入後も現地で生活していた。

戦後、山西産業は中華民国政府に接収され、日本人の半数は終戦にあたり帰国したが、残り半数は終戦前と同じ待遇で留任、河本自身も中華民国政府の指示により「総顧問」の肩書きで残留した。残留したのは家族などを含めて1200人余りで、河本の勧誘によるものであった。

やがて河本は日僑倶楽部委員長に就任、太原で彼を慕う日本人青年有志とともに国民党軍に協力して10万の中共軍と戦ったが、3か月後の1949年4月には中共軍は太原を制圧、河本は捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。中共は多くの共産党幹部らを殺害した張作霖を爆殺した恩人として河本を粗略にはしなかったという。

日本の敗戦から10年後の1955年8月25日、河本は収容所で病死した。享年72。河本の遺骨は同年12月、他の日本人抑留者及び日本人遺骨とともに祖国に戻っている。

翌1956年1月に青山斎場で葬儀が営まれ、旧陸軍や満洲国の関係者などが大勢参列し盛大なものであったという。弔文は友人代表の大川周明が寄せ「河本君は心身ともに不思議なほど柔軟にして強靭、屈伸自在で、しかも決して折れたりしない。きわめて小心にして甚だ大胆、細密に思慮し、周到に用意し、平然と断行する」と評した。

故郷の三日月町史は河本について「報国の至誠とその果断決行は長く記録されよう」と評している。地元有志により1965年には顕彰碑が建立された。忘れてはならない日本人である。(2013/10/31)

<「頂門の一針」から転載>
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