2013年11月03日

◆「満洲国」建国譚(6)

平井 修一


張学良は張作霖の軍「東北軍」、権力、資産を継ぎ(1928、昭和3年)、日本を含めた列強がとりあえず支那の中央政府として承認した蒋介石の国民政府(南京政府)の傘下に入った。蒋介石に倣って張学良は一段と満洲における排日侮日政策を進め、満洲での暴政に対する3000万漢人の鬱憤は20万の日本叩きへと向かっていく。

<彼ら(漢人)は上から押し付けられる苦しみの刷け場(はけば)を何かの相手の上に向けないではいられなくなった。その相手になったのが日本人や朝鮮人で、上は張作霖親子から下は道端の一商人までが自ずと結束して、日鮮人排斥、圧迫に全力を注ぐことになった。

満洲での漢民族の勢力が断然優勢になりすぎたばかりか、攻勢をとってきて、日本が絶対に死守しなければならない地位と権益というものが危うくなってきた>(長與善郎「少年満洲読本」1938年)

日本は日露戦争以来の27年間(1905〜1932)で厳しい財政の中、満洲に17億円(今の17兆円)もの投資をしてきた。日本のためと同時に満洲の発展のために社会インフラの整備などに力を注いだ。

鉄道、道路の敷設、通信網の構築、上下水道の整備、大学以下の学校の開設、図書館、博物館、病院などの設立、警察の設立、農業畜産の改良、植林・・・

日本以前にロシアも満洲に投資したが、これは自国の利益と政治的、軍事的な狙いによるもので、現地の住民の福利厚生、文化の向上などまったく視野に入れない欧米列強の植民地支配そのものだった。日本は先(1910)に併合した朝鮮と同じように近代国家づくりに全力を尽くしていったのだ。

<際限もないほどの文化(文明開化)事業は、ただ満洲を日本の食いものにしようなどという利己的な根性でできるものではない。むしろ損をしてでも満洲とそこに住む人間の生活を向上させたい公の精神からでなければやれないことだ。

それほどまでに打ちこんでやった仕事がすっかり他人(漢民族)に横取りされて、自分の利益以外に何も考えないような者へ貢物に過ぎなくなってしまっても構わない、17億円の掛け損になってもいいというほどに日本はおめでたいお人好しではいられない>(同)

張作霖の死後も日本政府は相変わらず張学良の東北軍を支持し、排日侮日に対して有効な策をとらずにいたため、邦人は実に悲惨な目に遭った。

<満洲事変の直前、支那大陸には「排日侮日運動」の嵐が吹き荒れます。「日貨排斥」(日本製品ボイコット)を叫んだ中国人たちは日本人に物を売らないばかりか、日本人の店からは物を買わず、また日本の女子供と見るや石を投げつけたものです。そのころの様子について、満鉄社員で「満洲青年連盟」の理事をしていた山口重治という人はこう書いています。

「奉天では日本人がうっかり城内(市内)に行くと、巡警、野次馬でふくろだたきに遭う。小学児童の通学には領事館警察隊が護衛していったが、それでも投石された。

このように追い詰められ、満鉄が(営業妨害による)事業不振で大縮減(リストラ)をやれば、満鉄に付随しているいろんな業者が参ってくる。まず土木業者が手をあげる。料理屋、旅館も火の消えたようになる。付属地外の日本人工業、鉱業、林業も圧迫で事業をやめざるをえない。

20万人の日本人は旗を巻いて日本に引き上げるか、残って餓死するかの土壇場に追いつめられたといっても言い過ぎではない」>(西尾幹二「GHQ焚書図書開封」)

漢民族のやり口は今も変わらない。

ロシアは北満に退いたが鉄道網を拡大したり、モンゴルの独立を扇動するなど勢力回復に努めている。帝政にとって代わったソ連も「世界革命は東方から始めるべし」と南下政策と共産主義の拡大を進め、満洲における排日侮日を煽り、張学良もこれに乗じて日本勢力を駆逐しようと敵対していく。

こうしたなかで漢民族による朝鮮人農民虐殺(萬宝山事件、1931年7月)、張学良の東北軍による日本軍参謀殺害(中村大尉殺害事件、1931年6月。8月に発覚)と続き、日本中に怒りが広がった。一触即発の状況で、関東軍、東北軍ともに臨戦態勢に入った。

関東軍の高級参謀の板垣征四郎大佐と作戦主任の石原莞爾中佐は作戦を練り、「柳条湖付近で満鉄のレールを小さく爆破」し、東北軍による攻撃とすることで戦端を開き、奉天の東北軍の拠点を一気に攻めるなどと計画した。

一方の東北軍は「奉天、遼陽その他の各地に駐屯する日本軍に対し機先を制して一斉に討滅行動を起こす」などと計画した。

<どちらが先に戦闘を開始するか不明だった。東北軍の20万の兵力と、これと手を結んだ補助的な匪賊10万が先制攻撃すれば在満(関東州を除く)7000の関東軍は苦戦し、日本人に多くの死者が出たであろう>(古野直也「張家三代の興亡」)

1931年(昭和6)9月18日午後10時20分、柳条湖の満鉄線路わきで関東軍将校が少量の火薬に点火し、ドーンという音とともに枕木2本が飛び、レールが1メートルほど折損した。関東軍は「東北軍による破壊工作」と発表し、直ちに軍事行動に移った。東北軍の拠点に、日露戦争の旅順攻略に威力を発揮した24センチ砲弾を撃ちこみ、かくして満洲事変が始まった。

「2人の将校が首謀してわずか5か月で満洲全土を制圧した。混乱をいっぺんに鎮める解決のための大胆な武断政治であったと言えるだろう」(西尾幹二)

「満洲国」建国へのレールが敷かれていった。(2013/11/2)

<「頂門の一針」から転載>
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