岩見 隆夫
政治家と政治記者の長い間柄は良好だったとは言い難く、外からは癒着、なれあい批判の方が多かった。しかし、そう一面的でもない。
たとえば、1980年ごろだったか、私は演説不作をテーマに政治家を取材した。ある日、吉田茂元首相の孫である麻生太郎に予約をとり衆院議員会館の部屋で待っていた。ところが、麻生は入ってくるなり、
「ブンヤは部屋に絶対入れるなっと、あれだけ何回も言っただろうがっ!」
と秘書を一喝した。仰天した。初めての経験である。
相手は新鋭だが、こちらは中堅、見れば年齢差もわかる。
<これは新聞嫌いだな。それにしても行儀が悪すぎる>
と私は思い、
「まあ、座んなさい。あんた、こんなこと言ってたら、将来政治家としてやっていけないよ……」
などと諭した覚えがある。その場はそれで収まった。
その後の麻生も、政治記者との関係は<信頼>でなく<緊張>、<軽蔑>と<嫌悪>も交じっているかもしれない。
そういう両者関係は、言葉遣いはともかくとして、むしろ必要不可欠だと私は思う。癒着、なれあい排除だけでなく、適度な緊張関係を保つためにも好ましいからである。
しかし、なれあい、緊張と違った<良好>な一面もある。これから書く2つの実例は私の個人的体験で、また自慢話かと言われるかもしれないが、お許しいただく。
確か76年だったと思う。いまのように日韓関係が荒れていた。自民党の一匹オオカミと言われた宇都宮徳馬が、政府の金大中処分に抗議して議員を辞職した。
論説委員だった私は、政府を批判して小ぶりの社説を書いた。翌早朝、自宅に電話がかかった。のっけから、
「三木武夫です。おはよう。けさのはよかったねえ。よかった」
「また、どうしてそんなことが……」
「わかるよ。文体で、うん。イワミ節」
ウソとはわかっていても、うれしかった。記者出身の側近秘書Oが手を回して、筆者を確認したのに決まっている。
それにしても、現職の首相が、朝起きぬけに一つの社説に着目し、行方を捜し、電話をかけてよこす。これは一体何を意味するのだろう。人によって解釈はいろいろだ。
三木はとにかく記者が好きだった。三木派担当を集めては、たえず談笑会を開いていた。私は三木派ではなかったが、数人の意見交換会を何度開いたかわからない。三木は何かを上手にくみ取っているようなところがあった。三木はたくまずして、メディアと政治家の間をつないだ功労者の一人だと、私はひそかに尊敬している。現職のころ、<世論と結託>した首相などとたたかれたこともあったが、本人は内心誇りに感じていたのではなか
ろうか。
もう一つ、70年ごろ、私は自民党の大平派を担当したばかりだった。当時、大平正芳は無役、旧池田派3代目を前尾繁三郎からかなり強引に引き継いだばかりで、派内は相当に荒れていた。
前尾にはリーダー候補の宮沢喜一らも味方している。私は先輩に命じられたのか、私の自主的意思だったのか、<分裂の恐れも>といった、大平にとっては致命的とも言える記事を書いた。
翌朝、東京・瀬田の大平私邸はいつもより早く朝駆けした。応接間の隅で一人小さくなっていた。しばらくすると大平が入ってきて、
「おお、けさはまた早いじゃないか」
「はい、けさほどはどうも……」
と私は深く頭を下げた。
「あー、きみはまあ文の人だからなあ」
下げた頭が上がらないまま、涙がポロポロ流れた。怒鳴るかわりに、こんな言葉を用意してくれていたのか。
ほかの領袖(りょうしゅう)なら、
「なんだ、けさのは。当分出入り禁止だ!」
と一喝されても仕方ないところだ。
まもなく、他社の担当が次々入ってきて、
<なぜおまえがここにおれるんだ>
といった顔で見つめた。当時の派閥はそんなところである。
大平も文が好きだった。朝食をとりながら、しょっちゅう文章に朱をいれていたのを見ている。メディアを理解しようと努力していた一人だったろう。
政治家と政治記者の関係は、<緊張>と<なれあい>の間に、<良好>への双方の理解と努力がないと、政治社会は劣化する、と私は思う。
(敬称略)近聞遠見:毎日新聞 2013年11月02日 東京朝刊=第1土曜日掲載
<「頂門の一針」から転載>