2013年11月05日

◆チエミ波乱万丈の生涯

渡部 亮次郎


大スター江チエミは失意のうち、吐しゃ物を喉に詰まらせて死んだ。まだ45だった。3日文化勲章を受けた俳優高倉健の元夫人であった。

少女歌手、江利チエミのルーツは「生活を支えるため」であり、この点は美空ひばりとの相違である。ひばりは母親のなし得なかった「歌手になる」という夢と、自身も歌が好きで非常に巧かったということが合致し、マメ歌手の人生をスタートするが、豊かではないまでも実家は父が「魚増」という鮮魚店を営み、家計に困窮していたわけでは無かった。

片やチエミは、三亀松師匠とのいわば喧嘩別れで失職した父、病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、これだけのものを背負っていた。

長兄は陸軍士官学校出身で英語も堪能なエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かず、結局、父がマネージャー、長兄が付き人という3人4脚での芸能活動が、1949年(昭和24年)、12歳のころからスタートすることになった。

進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに彼女はドリス・ディの「アゲイン」などを習得して、ジャズ歌手という方向性に照準をあわせる。

進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドから彼女は運命のレコード「テネシーワルツ」をプレゼントされる。

この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗する。なんとか最後の頼みの綱であるキングレコードの試験にパスし、1952(昭和27)年1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのとき15歳。

しかし吹き込みは前年の11月だったため、キングレコードは「14歳の天才少女」というキャッチコピーを提案した。しかしこのとき「嘘をつくのは嫌だ!」と抗議。

少女時代から自分の意志を通す一徹な部分を持った性格だった。母はチエミのデビューを待たず1951年6月に不帰の客となった。

同年、初主演映画の『猛獣使いの少女』に出演、「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれるようになる。

幅広いジャンルで活躍

チエミのテネシーワルツの大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ」(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。

後のペギー葉山、カントリーの小坂一也など、ロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化の魁を果たした。

本来、チエミの興行の権利を握っていたのは吉本興業であった。若き日の永島達司はチエミの興行を打った会場で「山口組の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。挨拶に行くと二人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。

後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物二人は文句を言おうと思ってきたが会場の客層を見て(キョードー東京の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と笑っている。

メジャーデビューの翌年、1953(昭和28)年の春には、招かれてアメリカのキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。

ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。

なお、チエミが渡米している間にライバルとなる雪村いづみがデビュー。帰国第一声は「雪村いづみって、どんな子?」だったという。しかもデビュー曲が自らカバーしようと準備していたテレサ・ブリュワー「想い出のワルツ」(原題: Till I Waltz Again with You)だったので心中おだやかではなかったが、スカートの丈が合わずシミーズが少し出た背の高い痩
せぎすな少女・いづみが空港で出迎え、その屈託の無い可憐な姿にチエミの心は和み、やがて二人は終生の親友となった。

美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡。

『ジャンケン娘』(1955年)などの一連の映画で共演。その頃からチエミは、日劇をホームグラウンドとして活躍、日劇の歴史で「歌手の名前がそのロングラン公演のタイトル」となったのは、1955(昭和30)年4月26日- 5月6日『チエミ海を渡る』がさきがけだった(江利チエミ日劇初出場はメジャーデビュー前の1951年(昭和26年)。1952年から1967年までリサイタルを開いた)。またTBS『チエミ大いに歌う』は、ワンマンショウスタイルのさきがけともなった歌番組(1965年4月 - 11月)であった。

映画の『サザエさん』シリーズ(1956年から全10作が作られた)もヒット。後にテレビドラマ(1965年 - 1967年)、舞台化もされ生涯の当たり役となる。

東映作品『ちいさこべ』では京都市民映画祭で優秀助演女優賞を獲得、『ふんどし医者』など、自身主演の音楽娯楽映画(『唄祭りロマンス道中』(渥美清・共演)、『ジャズ娘誕生』(石原裕次郎・共演)、『チエミの婦人靴』など)以外にも数多く助演した。

1959(昭和34)年、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚、家庭に入るものの、1960(昭和35)年に本格的に復帰。高倉とは義姉(異父姉)による横領事件などがあって1971(昭和46)年にチエミ側から離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。

1963(昭和38)年には日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場での『マイ・フェア・レディ』に主演しテアトロン賞、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞。

これに遡る1961(昭和36)年には「歌手としてはじめて」の舞台の1か月座長公演も梅田コマ『チエミのスター誕生』で果たし、舞台女優としても活躍した(翌1962年の新宿コマ『スター誕生』公演で芸術祭奨励賞受賞)。

代表作には、『アニーよ銃をとれ』、『お染久松』(芸術祭奨励賞)、『芸者春駒』、『白狐の恋』(芸術祭優秀賞)、『春香伝』、『花木蘭』などがある。

新宿コマの座長公演は1962(昭和37)年の『スター誕生』から1978(昭和53)年の『サザエさん』まで続いた。松竹系の舞台でも、1978(昭和53)年京都南座で音楽劇『二十四の瞳』に主演。

助演した舞台にも東宝歌舞伎『沓掛時次郎』(長谷川一夫と共演)、コマ歌舞伎『春夏秋冬』(現:坂田藤十郎(4代目)、当時の中村扇雀と共演)があり、女優としても幅広い活躍を続けた。

テレビドラマも『チエミの瓦版太平記』、『咲子さんちょっと』、『あの妓ちゃん』、『黄色いトマト』、『ねぎぼうずの唄』、『はじめまして』、『赤帽かあちゃん』など多数の作品に主演。

その活動の範囲は、歌手・女優に留まらず、NHK『連想ゲーム』の紅組キャプテン、TBS『みんなで歌おう73 - 75』のメインパーソナリティなど司会業でも活躍し、テレビ朝日『象印クイズヒントでピント』では女性軍2代目キャプテンを務めていた。

「エリー」という愛称が定着しているが、親しい友人の間では「ノニ」というあだ名で呼ばれていた。これは、チエミが、「…なのに」と口癖の様に言うことが多いことから使われていたと、彼女との思い出を振り返っていた杉良太郎が歌番組で語っていた。

45歳、突然の死

1982(昭和57)年2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。享年45。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息によるものだった。

数日前から風邪を引き体調が悪かったところに、ウィスキーの牛乳割りを呷り、さらに暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入ってしまったのが原因と言われる。

その前日は、2日前に行われた熊本での和服卸会社主催のイベントから帰宅したばかりで、亡くなった当日の夜にも北海道でやはり和服関連のイベントが組まれていた。

偶然ではあるが、チエミの柩が玄関を出た2月16日は、奇しくも最期まで愛してやまなかった高倉健との結婚で、花嫁衣装を着て実家の玄関を出た日と同じであった。

その高倉はチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を送り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという。

波瀾万丈の人生

チエミの実母と幼くして生き別れになり、名古屋で家庭をもって暮らしていた異父姉のY子は、ある日「テネシーワルツでスターになった歌手、江利チエミ」が自分の妹であることを知った(母のプロフィール:谷崎歳子の名でそれを知る)。

彼女は経済的に困窮している、家庭がうまくいっていないと虚実を語り、家政婦・付き人といった形で江利チエミ一家に入り込む。身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かるまでになった。ここからY子の捻じ曲がった感情によるいわれのない「江利チエミへの復讐」が始まる。

Y子は高倉健、チエミにそれぞれの「でっちあげの誹謗中傷」を吹聴し、離婚への足がかりを作ることとなる。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、あげくは高利に借金をし、不動産までも抵当に入れた。

事件発覚後も容疑を否定し、チエミへの誹謗中傷を週刊誌で行い、挙句は失踪、自殺未遂まで行う。チエミは自己破産をせず責任は自分でとると決意、断腸の思いで義姉を告訴。

義姉には実刑判決が下る。不遇の境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行であった。

2億とも4億とも言われた動産の被害、不動産担保を、チエミは一人で完済した。

デビュー直前の母の死、3人の兄もチエミ存命中に2人が亡くなり、高倉健との間に授かった子供も流産、またかわいがっていた甥の電車事故死、そして離婚と家庭運に恵まれなかったところも多かった。

さらに1968年にはポリープによる声帯の手術、また1970年には自宅を全焼、1972(昭和47)年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇しており、芸能生活の華やかな栄光の陰になぜか「不幸」がつきまとう波乱の生涯であった。
(ウイキペデイア)2013・11・4


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