2013年11月06日

◆「満洲国」建国譚(7)

平井 修一


河本大作大佐の張作霖爆殺(1928)、つづく板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐の作戦による関東軍の決起(1931)が満洲平定をもたらした。それにしても日本政府は何をしていたのだろう。

<(中村大尉殺害事件で)日本側の怒りも極点に達した。満洲事変の2か月前である。満洲の緊張した空気は、やっと政府上層部を動かした。今まで慎重だった南次郎陸相は1931年8月20日の師団長会議で「満蒙は日本の生命線である。重大危機を打破せねばならぬ」と訓示を行い、軟弱外交の幣原外相を攻撃している。

9月1日は全国の在郷軍人会が一斉に気勢をあげて街頭行進する。政党は選挙があるので在郷軍人には弱い。新聞も営業上、そうした空気に迎合して強硬な社説を掲載した。

関東軍司令部では司令官、参謀長がまったく知らされないまま板垣、石原らが問題解決の方策と準備に追われていた。旅順の軍倉庫に眠っていた重量25トン以上の24センチ榴弾砲は奉天に運び込まれ、輸送費は東京の橋本欣五郎大佐が東京商業会議所会頭から受領した軍資金3万円(今の3億円)から支出した。

この金は(張作霖を爆殺した)河本大作大佐が東京で橋本から受領して板垣、石原らに届けた。これだけ世界を震撼させた現地の軍資金はわずかに3万円だったのである>(古野直也「張家三代の興亡」)

日本政府の正式な支援はなかった。板垣、石原らが関東軍の参謀長にさえ相談しなかったのは新任の司令官の本庄繁が張作霖の軍事顧問をしていた人物であり、とても信頼できなかったからだろう。後に張学良は「もし私が東京に行けたら一番先に本庄大将の墓参りをしたい」と語るほど、本庄と張家はズブズブの間柄だったのだ。

決起の将校は血判した関東軍8人、朝鮮軍1人。東京では大川周明、橋本欣五郎大佐が推進派で、南陸相、金谷参謀総長など陸軍首脳部は黙認派だった。南陸相は「うまくいくならやれ。失敗しそうなら中止せよ」という指示をしている。

1931年(昭和6)9月18日午後10時20分から戦闘が始まり、関東軍は翌朝には奉天を落とした。

<前日までは排日侮日記事で埋まっていた現地の新聞は、若き英雄の張学良への賛辞に代わって「大盗学良」と攻撃を始めている。「天人ともに赦さざる張学良の十大罪状」という長文の中国人の投書が掲載された>(同)

漢人は勝者にすぐになびくのだ。

満洲の政治体制をどうするのか。日本が領有できる国際環境ではなかったから議論百出した。日本では張家から毒まんじゅうを貰った人々を中心に「張学良を呼び戻して説教し、改心させたらいい」という声もあった。

一方で早くも満洲事変の7日後には、関東軍に奉天省各方面団体連合会から「張学良の復活には反対だ、住民自治を」と希望する声も寄せられた。

張学良軍閥は満洲各地方の軍閥を配下に手なずけていたから、彼の軍隊が駆逐されても地方軍閥は残っている。その軍閥連合で共和制にする案もあった。満洲はもともと満洲人の故国なのだからと清朝を復活させる案もあった。

日本政府、幣原外相は関東軍に距離を置き、在満の日本領事館に「中立を保ち傍観せよ」と指示していた。このため作戦中の関東軍は「領事館の電信電話はもちろん、水一杯、宿泊も拒否され、路上で野宿するしかなかった。外交機関が国軍に対してこれほど冷たかった例は外国ではあり得ないことであろう」(同)という状況だった。

「政府を当てにはできない」と板垣、石原ら関東軍の血判8人組と陸軍首脳は当初から思っていたが、戦闘の折々にそれを痛切に思い知らされただろう。彼らは大義名分のためもあって当初からの青写真「満洲帝国建国」を画策していった。

支那事変勃発から半年後の1932年2月、関東軍の肝いりで満洲各地方の有力4大軍閥らが蒋介石・国民政府からの満洲分離独立を宣言、さらに翌3月には内モンゴルの指導者を加えて、清朝最後の皇帝・宣統帝(愛新覚羅溥儀、あいしんかくら・ふぎ)を元首とする満洲国の建国を宣言した。    (2013/11/4)


<「頂門の一針」から転載>
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