2013年11月12日

◆「大村益次郎」暗殺の件(1)

平井 修一


靖国神社の第一鳥居、通称「大鳥居」が再建されたのは昭和49年(1974)で、当時小生は市ヶ谷にあった日本エディタースクールで学んでいた。文章講座の授業で「町へ出てネタを拾ってこい」と指示され、ぶらぶらと靖国神社へ行ったら、大鳥居が完成間近だった。

これを記事にしようとメモをしていたら記者と間違えられたのだろう、神社の関係者が来て「正式に発表しますので、それまでは報道しないでくださいね」と言われた。それでよく覚えているのである。

♪空をつくよな 大鳥居 こんな立派な お社に 神とまつられ もったいなさよ 母は泣けます うれしさに

(「九段の母」、作詩石松秋二、作曲能代八郎、歌手塩まさる、昭和9年発売、昭和14年に大ヒット)

この大鳥居の先にこれまた天に届けとばかり高いところに立っているのが大村益次郎の銅像である。彼が参拝者を出迎えるのだ。参拝者は皆見上げることになる。境内の一等地であり、一番目立つ。

大村は日本陸軍の祖として尊敬されているが、それにしても破格の扱いだ。なぜか。大村は明治2年6月、戊辰(ぼしん)戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため東京招魂社(現在の靖国神社)の建立を献策しているのだ。靖国神社の祖でもあるわけだから当然破格の扱いになる。

靖国神社があるから将兵は「靖国で逢おう」と命を捧げた。妻子には「靖国に行けばいつでも俺と逢えるよ」と遺言して戦地へ赴いた。大村の銅像は参拝者、遺族はもとより英霊を迎えているのだ。

<大村益次郎(1824−1869)は幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。

長州征討戦と戊辰戦争で指揮し勝利の立役者となった。軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖と見なされることも多い>(ウィキ)

明治2年(1869)9月4日、大村は京都で元長州藩士の神代直人(こうじろなおと)ら8人の刺客に襲われて重傷を負い、2か月後の11月5日に死去した。享年46。

神代直人は長州藩で尊王攘夷運動を推進した大楽源太郎の門下生で、師と同様に過激な神道的尊王攘夷論者だった。神代は初めは高杉晋作暗殺を計画したが、高杉が愛妾おうのと四国へ逃げて果たせなかったことはよく知られている。

大楽は大村暗殺の首謀者の嫌疑を受けて謹慎(幽閉)中に門下生が山口藩からの脱隊騒動を起こし、出頭を命じられると長州から脱走したから黒幕の疑いは濃厚だ。しかし、暗殺事件当時から神代直人らを使嗾したのは薩摩藩士の海江田信義(のぶよし、後に子爵)ではないかと噂されていた。

海江田は有名な生麦事件において島津久光の行列を乱したとして斬られた瀕死の英人リチャードソンに「今楽にしてやると止めを刺した」(松方正義談。薩摩藩士、後に公爵、首相)と言われている。

当時は武士の多くは尊皇攘夷思想だったが、海江田は狂信的とまではいかないだろうが攘夷論者であり、根っからの尚武、武道を尊ぶ人だった。

海江田の談話をまとめた「維新前後実歴史伝」には「止めを刺した」とはないが、こう語っている(文語体からの拙訳)。

<文久2年8月21日(1862年9月14日)、久光公は予定通り勅使とともに帰京の途についた。300の従士は整然と威儀を正し、品川、川崎の駅を過ぎ、生麦村を過ぎようとしているとき、私は駕籠のそばについていたが、外人4人、うち1人は女が騎乗で走りすぎていった。

しばらくすると3騎、男2人、女1人が馳せ帰ってきたが、男2人は刀傷を負って、腰から鮮血が滴り出ている。男1人は斬り倒されて路傍に横たわっており、腰からの出血をぬぐっている。行列は一時騒然としたが、久光公は瞑目して神色自若とされていた>

実際はどうだったのか。「記録を見ると事件はもっとすさまじい姿相である」と大佛次郎がこう書いている。

<薩摩藩士がリチャードソンに斬りつけ、左肩より左腕、左腹部に切創を負わしめた。リチャードソンはなお逃れたが、腹部の傷から腸が流れ出て気力を失い、落馬し、立つことができなくなった。これを海江田らが追ってきて、付近の畑へ引きずっていき、各自、刀を振るってリチャードソンの右手首をほとんど切り落とし、左肩より胸部にかけて切り下げ、喉にとどめの一刀を刺した。

外人が主人島津久光の行列を乱したのだし、当然のことと(彼らは)見たのだが、無礼を犯したのが日本人であれば、これと同様な残忍な処置に出たかどうかは疑問であった>(「天皇の世紀」)

海江田は攘夷断行で興奮している。この際だから横浜の外人居留地を燃やしてしまえと吠えた。

<私としては開戦したかった。「外人の来襲に備えて警備するのでは後手に回るから、先んずれば人を制す、300の従士から100人を自分に預けてくれ、神奈川(横浜)で居留地を一撃して焦土とし、紅毛碧眼の奴らを粉砕してくるから」と言ったのだが、大久保(利通)らの反対で叶わなかった。

外人の来襲はなく、部隊は異常なく戸塚を発したが、それより先の駅駅では生麦の一事が伝わっており、庶民はこれを悦んで「さすがに薩摩侯だ」と歓呼した。

京都に入るとその熱狂は数倍で、久光公の武威を賞賛しないものはなかった。朝廷から招かれて百官が居並ぶ中、主上(帝)から親しくお褒めの言葉があり、剣(備前兼広)を下賜された。まことに古来から例がないほどの恩遇であった>(「維新前後実歴史伝」)

海江田は忠君愛国(藩)、武骨で勇敢な薩摩隼人で、攘夷の思いも人一倍強かったのだろう。(2013/11/10)

<「頂門の一針」から転載>
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